常節をあはびの子だと笑ふ人 | 神奈川 | 片山ひろし |
うららかに伸びする猫の長さかな | 石川 | 松川まさみ |
小綬鶏のちよつとこいとや木下闇 | 静岡 | 湯浅菊子 |
母の息いつぱい詰めて紙風船 | 愛知 | 稲垣雄二 |
鯉幟吹きあまる尾に力あり | 大阪 | 安藤久美 |
牛蛙恋句またもやボツとなり | 大阪 | 木下洋子 |
ほぐれつつ火柱となる牡丹かな | 和歌山 | 玉置陽子 |
*入選は「ネット投句」をごらんください。
常節をあはびの子だと笑ふ人 | 神奈川 | 片山ひろし |
うららかに伸びする猫の長さかな | 石川 | 松川まさみ |
小綬鶏のちよつとこいとや木下闇 | 静岡 | 湯浅菊子 |
母の息いつぱい詰めて紙風船 | 愛知 | 稲垣雄二 |
鯉幟吹きあまる尾に力あり | 大阪 | 安藤久美 |
牛蛙恋句またもやボツとなり | 大阪 | 木下洋子 |
ほぐれつつ火柱となる牡丹かな | 和歌山 | 玉置陽子 |
*入選は「ネット投句」をごらんください。
『長谷川櫂自選五〇〇句』を読んで初期の句の繊細さにうたれた。季語の取り合わせの新鮮さや俳句形式を熟知した言葉選びに感心させられた。
家中の硝子戸の鳴る椿かな 『天球』
夏めくやひそかなものに鹿の足 『天球』
『蓬莱』になると、視線を長く風景を大きく捉える傾向がでてきた。
淡海といふ大いなる雪間あり 『蓬莱』
『虚空』になると、死を見つめた句や苦しみを軽やかに捉える句がでてくる。またスパンの長い句が並ぶ。
みなし子に妻はなりけり鳳仙花 『虚空』
悲しみの底踏み抜いて昼寝かな 『虚空』
そして『震災句集』になると新境地が現れる。「俳句はなんでも書けなければならない」という信念のもと、例えば虚子の「戦争で俳句は何も変わらなかった」と言うような言葉とは対極をなす、現実の苦しみに切り込んでいく句を発表された。今、時を経てみてみると櫂先生の一大特色をなしている。俳句界も豊かにしたことが良くわかる。
『沖縄』でも、沖縄という地に想像力を駆使し、透徹した句境を示された。
『太陽の門』でも、死や被災地の記憶を人々の心になって表現し得ておられる。
初盆や帰る家なき魂幾万 『震災句集』
玉砕の女らはみな千鳥かな 『沖縄』
子の髑髏母の髑髏と草茂る 『太陽の門』
長く読み返し続けたい本であった。
東京新宿の朝日カルチャーセンターで7月15日(月・海の日)、50周年記念講座「長谷川櫂 自選500句を語る」が開かれます。
今回は新宿の教室で話しますが、ズームでも参加できます。詳細はリンク先のホームページをごらんください。
https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7244115
『自選五〇〇句』において、俳句に何が開かれたかを明らかにしたい。今年の『古志』三、四月号の長谷川先生の鮟鱇の句をきっかけに解りかけてきたことがある。
鮟鱇は己が重さにぐつたりと
鮟鱇は口のみとなり笑ひけり
笑ひつつ鮟鱇煮ゆる鍋の中
鮟鱇は海のはらわた煮ゆるなり
この中で「海のはらわた」が異質である。
日常生活や体験、あるいは眼前の景を鮮しい言葉で詠むという俳句ではない。むしろそこから離れ抜け出たときに、ふっと感じる何か、すっとよぎる気配。まだ言葉にならない感覚ーそれを内面化させ、きちんと自覚して言語化する。そして詠む。「海のはらわた」にはそういう流れがみえる。
多分それは、見たことも聞いたこともない、独自の言葉。それでいて読み手が深く頷く俳句。つまり読み手の中にも言語化されていないその感覚があって、俳句を読むことによって呼び起こされるということ。『自選五〇〇句』には、そういう俳句が打ち立てられる過程が示されている。
はじめからそれはあった。
春の水とは濡れてゐるみづのこと
深山蝶飛ぶは空気の燃ゆるなり
それが『五〇〇句』の「現在」になると、色調もとりどりに濃密に現れてくる。
さまざまの月みてきしがけふの月
という独白、嘆息にはもちろん、
大宇宙の沈黙をきく冬木あり
天地微動一輪の梅ひらくとき
という叙景句とみえる句にも「海のはらわた」が示されている。
青空のはるかに夏の墓標たつ
夏空の天使ピカリと炸裂す
暗闇の目がみな生きて夜の秋
紅や炎天深く裂けゐたり
培った想像力と言語量が土台にあると知れば、私はこれまでの怠慢を又も恥じ入るばかり。『五〇〇句』(読み手として力不足を感じる句が並ぶ。それは楽しいこと)を手に、私なりに歩むより他はない。
私が長谷川櫂を読み出したのは昨年(2023年)の秋からで、最初に読んだ句集は『太陽の門』。詠む素材の幅の広さ、自然詠の句柄の大きさ、卓抜な比喩、透徹した把握・・、驚きに満ちており、夢中で読んだ。
次に『九月』を読み、『震災句集』を読んだ。この時点で、句集を遡るのではなく、第一句集から順を追って読むことを計画した。その理由は、最初からこんなに風に詠めたのか、こんなに幅広く、自由自在だったのか、ということを探りたかったから。『古志』を読み、『天球』を読もうというところで、『長谷川櫂 自選500句』の刊行となった。
自選句を先に読もうかとも思ったが、各句集を読み、私の好きな句・感銘を受けた句を選び、その後にその句集のパートを読むことにした。やはり第一句集から読んでいくという計画は私には大事であり、その遂行を有意義なものにするためには、極力先入観を持たずに一つ一つの句集に当たっていきたいと思ったからだ。
現時点で読んでいるのは『古志』『太陽の門』のパートだが、自選と私の選を比べるのはたいへん楽しい。選が重なればなんとなく嬉しく、異なっていれば改めて読み、考える。著者と対話しているような気になる。
春の水とは濡れてゐるみづのこと 『古志』
いつぽんの冬木に待たれゐると思へ 『古志』
鷹消えて破れしままの雪の空 『古志』
雪の夜の新妻といふ一大事 『古志』
山一つ篩にかけて花ふぶき 『太陽の門』
アメリカの男根そびゆキノコ雲 『太陽の門』
炎天や死者の点呼のはじまりぬ 『太陽の門』
サントリー文化財団編集の雑誌「アステイオン」が創刊100号を迎えました。
今の時代の断面図ともいうべき1冊です。「滅びゆく日本のレクイエム」の趣きがあります。
この本が届いて既に一か月。一気に読み、また、くりかえし読んでいる。読むたびに心が動く。それは何故だろうとかと考える。心が動くのは、どの句にも心があるからだろう。
この句集に収められている546句。巻末の季語索引から季語を数えたら297個(新年23、春65、夏95、秋58、冬56)。季語索引での俳句鑑賞も面白い。297個の季語のうち、歳時記の分類の時候、天文、地理を除き、その他の分類に属する具体的な道具や動植物などが半数を占めた。
そう思ってまた1頁から鑑賞していく。著者が花となり、虫となり、道具さえ我が身の一部とし、そこに広がる世界を捉えようとしていることがよくわかる。そしてこの世に生きた者たち、または今を生きている者たちに心を寄せ、その心の叫びを代弁者たらんと句に詠みあげてあるので、あの世とこの世のあわいを演ずる能を鑑賞する感覚に似ていると思った。
天地をわが宿にして桜かな 『松島』
戦争を嗤ふ無数の蛆清らか 『太陽の門』
玉砕の女らはみな千鳥かな 『沖縄』
絶叫の口ひらきたる目刺かな 『沖縄』
花びらのかるさと思ふ団扇かな 『九月』
外套は人間のごと吊られけり 『太陽の門』
『万葉集』以来の、日本の詩歌の大河の船人として著者は、櫂の雫を花と散らしながら、未来へと推し進めていく。そう確信した一冊であった。
横浜・港の見える丘公園にある神奈川近代文学館の鮨カフェ「すすす」へどうぞ。
メニュー:ささめゆきのちらし鮨・坂口安吾のおけさ飯・山椒魚ッカ・芥川龍之介のおしるこ、など。
今「帰って来た橋本治展」開催中。
公園の薔薇が満開です。
スタイリッシュなデザインの本には長谷川櫂の人生が凝縮されている。読みすすめるとその人生が詳らかに書かれおり、まるで孤高の人長谷川櫂がすぐそばに降臨してきたかのように感じた。少し驚きもしたが知る嬉しさもあった。
故郷の熊本とずっと距離をとってきたと語り「雲の峰故郷の空に収まらず」『沖縄』「故郷といふ幻想へ帰省かな」『九月』「母の日や母を忘るること久し」『太陽の門』が綴られている。そんな中、今年一月から熊本日日新聞で「故郷の肖像」の連載が始まった。それは故郷熊本に想いを巡らす絶好の機会でもあるし、故郷と和解する最後の機会になるのではないかという。長年心の奥深くにあった故郷への深い思いが伝わる。
平井照敏と飴山實それぞれの師事のもと俳句を学び俳句の道を模索する若き日の姿勢は、いつも句会で繰り返される言葉と同じだ。
飯田龍太が付箋や○をつけた合本句集『古志・天球』を御子息である秀實さんから渡されたが、この自選500句の選が終わるまでは開かなかったという。時空をこえた龍太からの贈り物には重みがある。
また俳人としての歩みを五つの時代に分け、そこに句集・俳論・エッセーを当てはめている。この分類は長谷川櫂を読み深めるための水先案内人として重要な役割を果たしている。自分で俳句の道を探す大切さ、飯田龍太との交流、平井照敏・飴山實の教え、長谷川櫂の人間として俳人としての歴史を知り、また長谷川櫂論ではその道のりに寄り添った文章に感じ入った。
なぜ長谷川櫂はここまで人生を詳らかにしたのだろう。己への挑戦だったのではないか。その挑戦には長谷川櫂を客観的に見つめるもう一人の長谷川櫂の存在が無ければなし得ない。
冬深し柱の中の濤の音 『古志』
思ふままゆけといはれし龍太の忌 『柏餅』
さまざまの月みてきしがけふの月 『太陽の門』
私のような長谷川櫂の句集を今更にすべて買うことが難しい者には、このような自選句集はとてもありがたい。
興味深いのは、エッセーや詳細な自筆年譜から長谷川櫂の人生を深く知れることである。新潟の新米記者時代に交通事故で死にかけたことや結婚して子供が生まれ、孫ができたことなど。常に鋭い眼光を放っている夜叉のような俳人、長谷川櫂もまた一人の人間だということを改めて認識した。
句もまたその人の人生そのものだ。『古志』から『太陽の門』まで句風の変化はあるものの、一貫しているのは、どの句もすっきりとした句調ながらどっしりとした深みを抱えていることだ。すっきりと読めるのに後味は深い。相反する読後感がある。私が憧れる俳句なので句作りに迷ったときは読み返したい句集である。