三浦雅士『孤独の発明』を読んで 村松二本
本物の詩人たち
村松二本
まずは印象に残った言葉を紹介しよう。
「私とは、私が私を支配するということである」
「考えるとは、直観に文脈を与えること、すなわち視覚を聴覚に移すことに他ならない」
「言語の機能は自分を苦しめることだ」
「私とははじめから、相手のこと、外部のこと、なのだ」
「アニミズムとは、世界を構成するさまざまな事物に成り代わる-それらも私と同じように生きているのだと知る-能力のことだといっていいほどだ」
「人間はいわば、自分自身を脅かし続ける技術を習得してしまったのだ」
「舞踊とは音楽の視覚化である」
「人間の表現行為はすべて、基本的に死にかかわっている」
「自己は生命現象ではなく言語現象である」
どれをとってみても斬新で刺激的な断定だ。興味を覚える方には是非手にとってじっくりとお読みいただきたい。
次に、内容に啓発されて考えたことを記してみたい。
本書に取り上げられている、柿本人麻呂・後白河法皇・西行・藤原俊成・定家・芭蕉・宮沢賢治・折口信夫・大岡信らに共通する資質は、鋭い直観と明晰な論理的思考力である。言い換えると、韻文と散文とを自在に使いこなす能力を兼ね備えている。利き腕に例えるなら左右両利き。左右二本の鋭い刃をそれぞれ意のままに操ることができる。いわば言葉の二刀流である。両刀を用いて、まさに「直観に文脈を与える」のである。それが本物の詩人の条件なのだろう。
韻文すなわち詩の言葉とは、宇宙のつぶやきを人間の言葉に置き換えたものにほかならない。
宇宙の言葉を聞くためには、折口の言うとおり「ほうとした気分」になることが肝心だ。そのためには理屈を一旦捨てなくてはならない。つまり、散文の頭を完全に休止させる。そのときこそ「永遠の世界」への扉が開く。
理屈は意識して捨てようとすると、厄介なことにますます絡みついてくる。そんなときは捨てようとするのではなく、えいっとばかり飛び越えてしまうのもひとつの方法だ。結果を恐れず、敢然とジャンプするのだ。うまくいけば、一気に無重力の空間に飛び立つことができる。
読み終えて、同じく本書に登場する司馬遼太郎の「空海の風景」(解説大岡信)を書棚から引っ張り出し30年ぶりに読み始めた。中身はすでに大方忘れている。これからしばらくは新鮮な気分で空海の宇宙に遊ぶことができそうだ。