記憶すべきこと
五月の連休に山梨県境川村(現在、笛吹市境川町)にある飯田蛇笏、龍太の旧宅「山廬」を訪ねた。初夏の快晴の一日、途中、電車の窓からはまだ雪を冠った富士の山頂が連山の上に見えた。
龍太亡きあと、山廬は山廬文化振興会によって保存されていている。炉も机も昔のまま残る。その部屋で飯田家の今の当主、秀實さんから龍太の選句の話を聞いた。
龍太の時代、「雲母」の会員は四千人いて毎月五句ずつ投句してくる。つまり龍太は毎月、二万句の選句をした。投句者の名前はみない。句だけをみる。自分も驚く句をとる。媚びている句はとらない。すべて選び終えるには三日かかり、その後、しばしば体調を崩す。
あるとき家族が見かねて、到着したものから順に選句してはどうかと勧めたが、最初の一句から最後の一句まで同じ心で選句しなければと、「雲母」終刊まで自分のやり方を通した。まさに身を削る選句、鬼気迫るすさまじい話である。
この話を聞きながら、思い出した別の話がある。福田甲子雄(一九二七〜二〇〇五)は最後まで龍太のかたわらにいた人である。終戦後の昭和二十二年(一九四七年)、「雲母」に投句をはじめた。当時の主宰は蛇笏。多くて一句、ときには全没の歳月が十年つづいた。
二十歳底々の青年であることを思えば、そんなこともあったかと思うが、選者としての蛇笏もみごとなら、それでも投句をやめない甲子雄青年もみごと。たとえ一句も「雲母」に載らなくても、選句の役割は十二分に果たされていたといわなければならない。後年の甲子雄の名句、
誕生も死も花冷えの寝間ひとつ 福田甲子雄
濡紙に真鯉つつみて青野ゆく
地獄絵の炎にとまる白蛾かな
骨壷に五体収まる枯野かな
わが額に師の掌おかるる小春かな
このような重厚な句の数々も修練の日々の賜物であろうし、それを心に置いてこそ味わいが深まるというものだろう。最後の「わが額に」の句は病床の甲子雄を龍太が訪れたときの永遠の別れの句である。
「雲母」は「白露」「郭公」と姿を変え、今に至っている。それとともに蛇笏、龍太の精神は井上康明さんら次の世代に受け継がれゆく。これは「雲母」の人々にかぎらず、俳句をする人がみな記憶すべきことである。(「古志」6月号「俳句自在」を転載)
