#002 俳句世界遺産、登録させない運動を(大山アラン)
ユネスコにそもそも疑問がある。ユネスコは「法の支配」に対して「基本的自由」を尊重するのが目的である。しかし文化を登録をするということは、あることを定義づけ支配におくことだ。人間の基本原理を創設することである。これは法の原理そのものではないか? 「言葉」を限られた人間に掌握させることで、われわれは自由を失うだろう。
ユネスコ憲章第1条に、次のようにある。「いずれの国で作成された印刷物及び刊行物でもすべての国の人民が利用できるようにする国際協力の方法を発案すること。」
このような考えは、言葉に絶対的な信頼を寄せているものだ。しかし言葉に信頼をよせるほど、言葉はより支配的になり、そのような言葉に応答する責任を減ずることになる。このような言葉はもはや機能であり、考える必要もないのだ。しかし考える必要のない言葉などもはや言葉でもない。それは純然たる受容を要求する記号でしかない。
どの国が印刷物をつくっても、どの国でも通用するということは、言葉を形骸化させることに他ならない。いや、そればかりか思想を缶詰にすることだ。思想の缶詰を仕入れるだけ仕入れて、存在原理の欠如を埋めようとしている。
上に引用したような「方法」はそもそも「発案」できるものではない。実際「国際協力の方法を発案」なんていう曖昧な言葉は実に無神経で具体性がない。蛾が光に吸い寄せられるように、なにか「発案」という言葉にメシア的なものの救済を求めているポーズに過ぎない。人間の存在は、このようなポーズとは相いれないはずだ。
なぜここでいう「方法」に具体性がないのか。それは、言葉にたいする「発案」がなく、したがって言葉が交通をひらいた社会に対する「発案」がないからだ。「発案」がないから、俳句を無形文化財に登録する運動を「廃案」にするという言葉さえ、しっくりこないほどである。
けれども登録されることへの渇望とでもいうべき病、人間の存在原理を人間が創りあげていくという一種の病は例外なく誰にでもあるはずだ。俳句世界遺産の運動を他人事とおもっていると、自分の句作までこの病に蝕まれる。
必要なのは俳句を文化遺産に登録することではない。「俳句」を発見していくことである。具体的に言えば俳句を文化遺産に登録させないという運動において「俳句」の発見は各々のうちで達成されるであろう。
