俳論の不在
読んでよかった、少なくとも読む時間がムダではなかったと思わせる俳論に最近ほとんど出会えない。
なぜか。理由を考えてみると、既存の俳句用語を何の疑いもなく自分の思考の土台とし、俳句を評価する基準としている。この従順さ、いいかえれば無批判さこそ問題である。既存の俳句用語とは近代でいえば写生、客観写生、花鳥風詠などがある。こうした既成の概念そのものを疑うことこそ俳論の出発地点のはずである。
にもかかわらず、たとえば「この句は写生句としてすぐれている」とか「客観写生の新たな到達点である」とか「花鳥諷詠の精神にかなっている」などと無条件に使ってしまえば、俳論も俳句もそれ以上、一歩も前へ進まない。近代俳句の枠組みの中を犬が自分の尻尾を追いかけるようにぐるぐる回っているだけである。もしあなたが読んでいる俳論でそのたぐいの文章に出会ったら、それ以上、読む必要はない。
なぜ、このような砂上の楼閣まがいの俳論が無邪気に量産されているのか。思いあたるのは、われわれがコンピューターに馴らされてしまっていることである。パソコンで目的のページを開こうとすれば、コンピューターの要求するとおりの操作をしなければならない。まちがったボタンを押せば「あなたはまちがっています」と警告され、永遠に目的のページには到達できない。これを子どものころから日夜何度も繰り返されれば、たいていはコンピューターの要求には従順に従うほうが効率的であると思いはじめる。
社会に置き換えれば、既存の体制を疑わず、その要求に素直に従うほうが得であるということになる。これが社会を腐らせる。
俳句の世界でもこれと同じ現象が起きているのではないか。既存の常識を疑うこと、これが突破口となる。
では今月の「三句欄」から十句。
大波にさらはるるとも一遍忌 飛岡光枝
外套に包みおほせぬものやある 勝又眞子
翁忌やホ句のひかりの二三すぢ 金田伸一
肩こりの辛さは知らぬ海鼠かな 平尾 福
波郷忌や下手な俳句をいつまでも 土筆のぶ子
底冷えの厨にひとつ釜眠る ストーン睦美
凩に一葉の行方おもしろし 大平和男
鮟鱇の逆さに睨む浮き世かな 川辺酸模
青写真大きな夢を写すべく イーブン美奈子
聖菓切るわれら五人の家族にて 森恵美子
(「古志」3月号「俳句自在051」)
