『歌仙 一滴の宇宙』を読む
歌仙に関してはまったくの素人であったが、このサイトの「うたたね歌仙」に二十回近く参加してみると「なるほど、人はうまい句を付けるものだ」と幾度も感心させられるようになる。人の付け句にこだわりが持てるようになれば、第三者が巻いた歌仙も少しは鑑賞できるかもしれない、と、そんな思いで読みはじめた本書だったが、しかし、そうは問屋がおろしてはくれない。「句を分ち書きにして文字に高低をつけそのうえ適度に一行アキを配して音とリズムを際立てるという(跋より)」この本の表記がそもそも尋常ならざる試みなのだ。
最初は五七五のリズムで本書を読み進めていったがどうもしっくりこない。五七五七七/五七五七七、とリズムのいいところで一行アキが入るのではなく、場面場面の変化を読み取ってアキが入ってくる。収録されている七つの歌仙から「夏の彼方」の1(歌仙でいう「初表」)を見てみよう。
この章、ごらんのように七五五/七七/五七五七七/五七五七七、という四節から成り立っている。まるで、歌仙の五七五七七という桎梏から、つかの間、解放されて自由な場面展開を楽しんでいるようでもある。七五五で息を入れ、次の七七でまた息を入れる、まるで詩を読んでいるような錯覚にとらわれる。実際
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夏の彼方へ
流れゆく大河
天をささへて
白百合一輪
絶壁をじわじわ攀じる翁
巣立ちをならふ大鷲の雛
朧月
濁りて重し
ビルの谷
子はつぎつぎに
シャボン玉吹く
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と簡単に詩に置き換えられそうである。
暗喩というのは、言葉と言葉の間に発生する磁力のようなものであるが、この歌仙の一行アキによって切り離された断崖にもまたそうした磁力が発生していて、ともすれば糸の切れた凧のように、どこまでも飛んで行きかねない「節」をあやうくつなぎとめているようである。西脇順三郎の詩を思わせる自由闊達な場面展開と歌仙の持つ宿命的な桎梏が相同居した不思議な一冊であった。(北側松太)