長谷川櫂句集『柏餅』を読む
昨年の『震災句集』『唐津』に続く作者十三冊目の句集(『海の細道』を加えれば十四冊目)です。二〇一二年までの三百六十四句を収めています。『柏餅』のもっとも大きな特徴は、この句集が『震災句集』の後に出された句集であるということでしょう。作者は「あとがき」で「『震災句集』に入れた句は外した」と書いています。確かに『震災句集』で詠まれたような東日本大震災を直接詠んだ句は多くありませんが、大震災がその句作りに大きく影響していることは間違いないでしょう。たとえば
雪国の雪に埋もれて死ぬもよし
松三日すでに生殺すさまじき
たわいなき風邪に命を奪はるる
九州を沈めて梅雨の上りけり
人の世は虫の世よりもなほ淋し
どれも非情なこの世の現実を直視した句に思えます。もちろんこうした句ばかりが収められているわけではありません。
一枚の龍のうろこを初硯
海老蔵の切つた張つたや花の春
雪まろげ佐保姫とその妹と
銀河系しぶきあげつつ回転す
少年や海パン一丁あればよく
など景気のよい句もたくさんあります。「禍福はあざなえる縄の如し」という中国の古い諺があります。この世は幸せと不幸せ、豊かさと貧しさ、美しさと醜さ、喜びと悲しみが、メリーゴーラウンドのようにぐるぐる回っているのではないでしょうか。『柏餅』はそれらをすべてひっくるめて詠んでいるのではないかと思われます。
作者は『震災句集』の「一年後」と題したあとがきで
短歌に比べれば、俳句は「かたこと」なのである。そこで言葉の代わりに「間」に語らせようとする。「間」とは無言のことであり沈黙のことだが、それはときとして言葉以上に雄弁である。ただそうした「間」がいきいきと働くには空間的、時間的な距離(余裕)がなければならないだろう。(中略)俳句で大震災を詠むということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない。それはときに非情なものとなるだろう。
と書いています。「非情なもの」にも向き合うことはもちろん作者ばかりではありません。俳句を詠む誰もが心に留める必要があると思います。被災の大小、有無を問わず東日本大震災を経験したということはつまりそういうことでしょう。『柏餅』はそれをわれわれ読者に教えてくれています。ただ同時に作者は、三月五日付けの朝日新聞での対談で
震災の前と後とでは明らかに俳句の成り立つ「空気」が変わってしまった。(作る側も読む側も)天真爛漫なものに冷や水が浴びせられた。ただ、俳句も短歌も我々が考えている以上に大きなもので、普段は氷山の一角に表れている部分だけを使って作っている。その一角だけに注目すれば現状は大きな変化だが、その下にあるものを考えれば何も変わらない。
とも語っています。『柏餅』は作者のこれまでの句集以上に、氷山のより大きな部分を見据えて詠まれた句集なのかもしれません。