能と狂言に見る和歌の素養 藤英樹 vol.2
現代において短歌や俳句を詠む人は少数派といえるでしょうが、王朝時代の貴族たちにとって和歌は必須の素養でした。上手に詠めるか詠めないかは大げさにいえば人生を左右する大問題だったと思います。
紫式部が描いた「源氏物語」の主人公・光源氏は輝く美貌の持ち主であるだけではなく、和歌の才能もあったればこそあれだけ女性にもてたのです。当時、桃の節句に朝廷で「曲水の宴」という行事が催されました。庭園を流れる水に盃を浮かべ、貴族たちは自分の前を盃が流れ過ぎないうちに和歌を詠み、盃の酒を飲んで次へ流すというものです。和歌が上手に詠めない貴族には苦痛以外のなにものでもなかったでしょう。
時代は少し下り、「平家物語」を素材にした「熊野(ゆや)」という能があります。作者は不詳ですが「熊野松風は米の飯」(能の「熊野」「松風」は米の飯ほど誰にでも好まれる)という諺があるくらい有名な曲です。
平家全盛のころ、平宗盛(清盛の子)の寵愛を受けていた熊野という女性がいました。遠江(いまの静岡県西部)の出身ですが、宗盛に仕え長く京の都に留まっています。やがて故郷の母が病気との知らせを受けた熊野は母のもとに帰らせてほしいと宗盛に願い出ますが、許されません。花が満開のころ、熊野は宗盛に従い清水寺に出かけます。花の下で舞ううち、にわか雨が降り出し花を散らせます。熊野は母のことが思いやられ
いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらん
と涙ながらに詠みました。これにはさすがの宗盛も哀れを覚え、ついに熊野が遠江に帰ることを許すのでした。
和歌の素養が身を助けた、王朝の残り香のする話です。ところが時代がさらに下り、室町以降の狂言の世界になると、様相はだいぶ変わってきます。「萩大名」という曲があります。
長く京の都に滞在していた田舎大名が退屈しのぎに物見遊山に出かけようと、太郎冠者に適当な場所がないかと相談します。太郎がある庭園の萩が盛りと伝えると、大名は出かけようと言います。大名は太郎から「風流者の庭園主は訪れた者に必ず和歌を所望する」と聞きますが、無骨で和歌の素養がありません。そこで太郎から
七重八重九重とこそ思ひしに十重咲きいづる萩の花かな
という和歌を教えられ、「七重八重」は扇の骨の数に、「萩」は足の「脛」に見立てて覚えようとします。でも結局うまく覚えられず失言を重ね面目を失ってしまいます。「熊野」とは逆に和歌の素養のなさが身を滅ぼす話。
ここに登場する大名というのは江戸時代の大名ではなく、地方の小さな荘園を領有していた豪族で、訴訟などのために都に上っていました。和歌の素養がないのも無理はありません。能が古典を素材にしたのに対して、狂言は当時の現実を笑いにしたのです。