#007世界への意思表示(佐々木健一)
2021年9月23日
風景や事柄を十七音にしようとする意識を、継続させるためのひとつの方法として、吟行があるのではないか。
コロナの蔓延する状況下でなければ、はっと心をとらえた瞬間の風景を実際に見たり聞いたりして、頭で考えているだけでは作れない、いきいきとした偶然の出会いによって生まれる一句ができるのに……。そう考えて、吟行と句会が開催されないことをくやしがる人もいるかもしれない。また俳句とは人とのつながりを実感するよろこびがあってこそではないか、と考える人もいるだろう。
だから、吟行や句会が開催されない状況では俳句はできない、と決めつけるのは本当にもったいないことな気がする。
一人でも吟行はできる。たとえば杉田久女の一句。
谺して山時鳥ほしいまま
これは久女が英彦山で吟行して得た句。英彦山は福岡、大分にまたがる険しい修験の山。下五の「ほしいまま」を得るまでに四度も登山している。
久女の随筆『英彦山に登る』によると「さて私は彦山へはいつも大抵一人で登るのだった。」とある。
リモートでの句会と人が集まって行われる句会。
どちらの句会でも坪内稔典の俳句論『俳句のユーモア』の表現なら「共同の創作の場」というところか。人や言葉に向き合う考えかたはどちらも同じ。
マスクのまま他人のわかれ見ていたり
これは寺山修司の句集『花粉航海』の一句。
コロナの影響で季語「マスク」から思い浮かべることが変わってしまったと感じている。
言葉の持つイメージはいろいろなできごとによって変わり続ける。
それは季語であっても同じなのだと思う。
コロナ禍だからこそ、自然のいとなみや命の尊さについて以前よりも考えさせられたという人も多いはず。
それは十年後、二十年後にコロナ禍のはじまりの時代の俳句の発想のかたちだったのだとあらためて思うのかもしれない。
松尾芭蕉は俳句を夏炉冬扇といったというが、ワクチンのようには俳句は効果はないとしても、人とのつながりや命のありようについて、ただ悲しむばかりではなく、それぞれ自分の生きる世界へ意思表示ぐらいはつかめるものなのではないかと思うのは、俳句というものに期待しすぎだろうか。