キンイロか、コンジキか 「古志」2019年4月号から
過ぎ去ろうとしている平成は末期的大衆社会の時代だった。このことは徐々に明らかになることであり、いまこの場で論じる話題ではない。
象徴的な一例を挙げておけば、どこの大学でもいい。ホワイトボードに『金色夜叉』と書いて学生たちに読ませれば、少なからぬ学生が「キンイロヨマタ」と読んでおかしがる、そんな時代である。「教養」が笑いものにされるようになってしまった。人類の歴史上、はじめての現象である。
三月の鎌倉句会でこんな句が出ていた。
金色の春横たはるかすていら 葛西美津子
「かすていら」からはじめて、
かすていら金色の春横たはる
とするほうが「金色の春横たはる」が「かすていら」の説明にならず、かつ「かすていら」のあとに「句中の間」(句中の切れ)が生じることは指摘したのだが、披講者がこの句を「キンイロノ」と読み上げていたのには違和感があった。これは「コンジキノ」だろう。
「キンイロ」と「コンジキ」はどう違うか。辞書には同じ意味と書いてあるはずである。しかし「意味」は同じでも「風味」がすべてである俳句ではこの違いは見過ごせない。
「キンイロ」といえば表面だけ、「コンジキ」といえば、中までという感じがする。「キンイロ」は軽く、「コンジキ」は重たいともいえるだろうか。だからこそ『金色夜叉』は「コンジキヤシャ」であり、中尊寺の金色堂は「キンイロドウ」ではなく「コンジキドウ」なのだ。
ただ言葉の風味は直観でわかるべきことで、言葉での説明の必要はない。頭で分かっても感じでわからなければダメだからである。
ネット投句(三月十五日)の特選から。
自づから鳴き出しさうな鶯笛 森 凜柚
あけぼのや二つながらに春の星 外澤桐幹
縄文の土偶は妊婦山笑ふ 櫻井 滋
臥すままに髪のよごるる春の風邪 高橋佳代
大きな春水平線の向かうから 三玉一郎
いつまでも校庭に居る卒業生 山本孝予
部屋ごとに畑で咲きし黄水仙 三好政子
蛤をふたつ買ひ来て雛祭 内山 薫
平成の早懐かしき雛納め 木下洋子
干鱈を金槌で打ち昼の酒 齊藤遼風
(「古志」4月号の「俳句自在」を転載)