クリムトの春 「古志」2019年3月号から
二月の鎌倉句会にこんな句が出ていた。
クリムトの接吻の春来たりけり 大場梅子
特選でいただいたのだが、別の句会ですでに、
クリムトの接吻の秋来たりけり 唐 振昌
という句があったという指摘があった。クリムトの「接吻」という、金色で飾られた絵には「秋」こそふさわしいというのである。
考えるべきことがある。まず「春」か「秋」か。指摘した人のいうとおり「秋」のほうが絵の感じを言い当てているというのは、そのとおりだが、言い方をかえれば、絵を言葉でうまく写しただけということになる。その背後にあるのは、俳句は絵の模倣つまり二番煎じ、それでいいのだという考え方である。
一方、「クリムトの春」は絵そのままの「秋」を「春」へ転換している。愛の終わり(秋)を愛のはじまり(春)に転じたということだろう。ここに絵を超える言葉(俳句)の世界が広がっている。
句の早い遅いをいえば、「クリムトの秋」が先にできている。しかし、似た句であれ、後の句のほうがよければ、こちらを認めなければならない。前の句が絶対であるとするなら、俳句史は欠陥品の山積みになってしまうだろう。
あらゆる句は未来の句の超えるべきハードルとして存在する。中途半端な句を作っていると、いつか別の句に代わられる。だからこそ、よい句を作れということである。
では二月の東北三県合同平泉句会からいくつか。
春きざす漬物石の傾ける てい子
もう春の来てゐるみどり草の餅 てい子
福豆を撒くも拾ふもひとりかな てい子
遺されて暖炉の前の揺られ椅子 翠
冬の鳥砲弾となり越えゆきぬ 翠
ぎんどろの枝のひと掃き冬銀河 主明
除染土の土に還れぬまま凍つる 主明
夏生いま入院中や冬籠 冬虹
平成の名残りの雪や光堂 冬虹
墨捏ねて奈良は永遠日脚伸ぶ 光枝
縦横に雪山うれし獣跡 光枝
駆け出して子ら鳥となる春を呼ぶ 由美子
浜近き冬鳥の声魂を呼ぶ 雅子
蓬生や荒びの土の相馬郷 みさ子
仏壇の花のしをるる寒さかな けいこ
(「古志」3月号「俳句自在」を転載)