作句力と自選力 「古志」2019年1月号から
山田洋さんの遺句集『一草』が十一月に完成した。収録した句といい、装丁の俵屋宗達の絵といい、近年珍しい充実した句集になった。
この旅に生きては行けぬ花野あり 山田洋
三月三日に亡くなって八か月、西川遊歩さんはじめ編集委員のみなさんの熱意と尽力の成果であるが、選句に携わった者として一言、書きとめておきたい。
私は山田さんを生前から尊敬し、死後いよいよ敬愛するようになった一人であるが、彼の俳句に対してはつねに突き放して眺めてきた。いい句はいいし、悪い句は悪い。いわば非情な目で見てきた。遺句集の選句も同じ。ただ落とした句はそれほど多くなく、それこそ山田さんの俳句に対する打ち込みの証といわなければならない。
非情とは情を交えず、他人の目で句を俯瞰し批評すること。選句するとき、これがいかに大事か。もし情が交じれば、批評が成り立たず、選句の結果はガタガタになる。
非情な他人の目はじつは自分の句に対してこそ必要である。ふだん俳句を作るとき、自分に溺れてただ多作するのではなく、非情な他人の目で自分の句を眺めつづける。これを「自選力」という。作句力はこの自選力が備わって初めてまっとうなものとなる。
私が選句をしている「一句欄」には葉書で何枚も投句ができる。毎月、たくさん送ってくる人もあるが、これは選句を全面的に私に委ねているということ。自選力がないことをみずから示しているということになる。
投句とはそういう場だと考えておられるということだろうが、投句とはじつは選者との対決である。これを忘れてはならない。
正月を迎えて、山田さんの『一草』から新年の句を一句、
わが余生丸ごと俳句花の春 山田洋
では東北三県合同句会(福島)の特選句から。
あなたから成るしら露もこの霧も 照井翠
蓑虫も二つ並べば恋心 石原夏生
俤を拾ひ集めて牡丹焚く 武藤主明
雑木山日がなどこかに木の実降る 及川由美子
嫁いびる唄も懐しあんこ餅 甲田雅子
寒牡丹命ひとつの姿かな 藤英樹
淋しくて我を呼びしか寒牡丹 藤英樹
寒牡丹みちのく人の如く佇つ 藤英樹
嘴で一突き柿の甘くなる 葛西美津子
(「古志」2019年1月号、「俳句自在」97を転載)