厳正な基準 「古志」8月号から
シーズン中の野球にしても世界大会が開かれたサッカーにしても、勝敗は点数ではっきり表れる。スポーツの場合、数字は有無をいわせぬ勝敗の基準なのである。
これに対して俳句をはじめ文学のよしあしの基準は曖昧だと思われていないか。ある人が褒めても別の人はけなす。文学の批評、俳句の批評の絶対的な基準などないと思っているのではないか。その結果、俳句の評価は時代とともに変わる、その時々に人気のあるもの、売れたものがいいのだと思いはじめる。
こうした風潮は高浜虚子(一九五九年、昭和三十四年没)後にはじまり、飯田龍太(二〇〇七年、平成十九年没)後はそれ一色に染まりつつあるのではないか。
俳句の評価は人や時代によって変わると思っている人は案外多いのかもしれないが、それでは俳句に未来はない。なぜなら俳句は時代の風潮や選者の好みに合わせてつくればいいことになるからである。いいかえるなら、俳句の評価は人や時代によって変わると考えるのは俳句に未来はいらないというと同じなのだ。
じつは文学、つまり俳句にもスポーツの点数以上に厳然たる基準がある。しかし人の能力は限りがあるので、なかなかそれを知ることができない。ただ知りえないとしても、あることをわかっていることこそ大事なのだ。それがわかっているのと、わかっていないのでは雲泥の差がある。というのは、それをわかっていることが努力、精進を生むからである。
兼好法師の『徒然草』(第八十五段)のような話になってしまったが、もし、そんなものはないと思えば百年後、いや今すでに何の跡形もない。
七月の鎌倉句会の秀句から。
香水やローマ衰亡かくありき 伊豆山
香水や我に冷たく美しく 麒麟
香水瓶かたち愛でつつ古りにけり 桃瑪
一睡の夢の香水まとひけり 佳奈子
香水を一滴二滴こころにも 梅子
香水のはるかにかをる闇の中 光枝
もうどんな風にも耐へる夏木かな 侑子
犬埋めし庭にほのぼの花南瓜 怜
易々と人を死なせて泥涼し 幸三
尾を切つて命走るや青蜥蜴 遊歩
動くもの蜥蜴ばかりの野原かな 益美
嘘で嘘なほ固めゆく暑さかな 靖彦
(「古志」8月号、「俳句自在」を転載)