#014 俳句世界遺産の問題について(関根千方)
俳句の世界文化遺産登録については、急がずに良く考えたほうがいい、というのが私の考えです。
否定的な反応もわかるのですが、ユネスコの理念だけを読めば一定の理解はできます。ユネスコ世界遺産の登録基準を見ると、かならずしも現存する/しないに関係がなく、むしろ、生きた文化(伝統、思想、信仰、芸術)の保護を対象にしていることがわかります。なので、決して「遺産」しようというものではありません。
そもそもユネスコ世界遺産はアスワンハイダムの建設によって水没の危機にあったヌビア遺跡を救うことから始まったそうですが、その理念を確認すると、世界には自然災害や紛争、あるいは近代化による環境破壊などによって、失われていく文化や自然があり、それらを将来にわたって守っていこうということです。
俳句という文化は滅びないかもしれないですが、その文化が持続できる自然がなくなってしまえば、ただの空虚な形式になってしまいます。たしかに今世紀、自然環境の保護や生態系の保全は、ますます重要になってくるでしょう。俳句の存亡以前に、そうした危機感を共有することは大切だと思います。
しかし「富士山」のように現実が理念と逆に進んでいるケースがあります。富士山は20年もかけて念願の世界文化遺産登録を果たしたあと、観光客が激増しました。経済効果は年間数十億とも数百億と言われています。ところが、登山者の増加が斜面の崩落の問題を起こし、またゴミの不法投棄が増加して、景観や自然環境を保持がますます叫ばれるという、皮肉な事態に至っています。世界文化遺産の理念どころか、逆に経済的な動機だけが露呈したような状況です。もちろん、こうした状況を放置しているわけではなく、おそらく関係者はさまざまな対策を打ちつつあるのが、実情だと思います。
だから重要なのは、思っていることとやっていることが、ズレないようにすることではないでしょうか。
それから、もう一つ、俳句の世界文化遺産登録の問題とは別に、俳句を定義することの問題があります。
俳句は誰が定義しようと、実際に俳句を詠む人々に受け入られなければ、何の意味もありません。たとえ、「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会」が俳句を定義したところで、それは絶対ではないし、また変更可能性を含むものと思います。仮に一つの権威になるとしても、当然、反動も起こるはずです。それが新しい運動を起こすかもしれません。
また俳句が先か、定義が先か、といえば、もちろん俳句が先にあります。仮にどんな定義がなされたとしても、俳句はそこを越えていくでしょうし、それを塗り替えていくだけの力があると思います。
坂口安吾が「日本文化私観」で美や文学について言ったように、人が生き続けるために詠まざるをえない必要があるのであれば、俳句はなくならないし、俳句は生きつづけると私は思っています。
