北側松太 says:2012年1月26日 at 2:47 PM
『震災句集』を読んだ。震災後すぐに出版された『震災歌集』は、怒りと絶望が火の玉のように飛んでくる歌集であったが、このたびの『震災句集』には、その荒々しさはない。一章から九章まで季節別に収録された百二十五句、その冒頭、一章におさめられた十六句は、一見、震災とは無縁なところで詠まれているかのようである。
正月の来る道のある渚かな
松かざる舟で詣でん瑞巌寺
白鳥のかげろふ春の来たりけり
「一年後」と題したあとがきのなかの、「俳句で震災をよむということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで眺めることにほかならない。それはときに非情なものとなるだろう。」という言葉をヒントにすれば、たとえ大災害であっても、自然によってもたらされたそれは、人間にとっては「悠然たる時間の流れのなか」の一こまに過ぎないということになるのかもしれない。これら一章の中におさめられたおだやかな句の数々は、むごい体験をした人々が辛いながらも取り戻さねばならない日常であろうか。
とはいえ、大震災の生々しい傷あとがそう簡単に清算できるわけでもない。
燎原の野火かとみれば気仙沼
幾万の雛わだつみを漂へる
焼け焦げの原発ならぶ彼岸かな
みちのくの山河慟哭初桜
生きながら地獄をみたる年の逝く
日本の三月にあり原発忌
『震災歌集』でみせた絶唱は、この『震災句集』でも鎮魂の祈りとなってわたしたち前にあらわれる。
震災後、間をおかずに出版された『震災歌集』としばらく時を置いてから出版された『震災句集』、この二冊は読みくらべるべき二冊である。短歌と俳句の距離、時間の経過なかであらわれてくるもの消えてゆくものなどがおのずと見えてくるに違いない。