フクシマの桃?
今月も「フクシマの桃」の投句がいくつもあった。東電福島原発の事故によって農地も作物も放射能汚染された。安全基準は満たしているのに「風評被害」を受けているという。それら農作物のために政府が販売促進キャンペーンを展開している。
桃はその典型的存在である。TOKIOの面々がテレビでおいしそうに食べてみせる。原発のゲも汚染のオも一言もいわない。「フクシマの桃」の投句はその政府広告の受け売りである。どちらも愚かな善意が悪臭を放っている。
考えればすぐわかることだが、放射能の安全基準といっても二十年後、三十年後まで見通したものではない。今のところ安全ですというだけのシロモノである。赤ん坊や子どもをもつ母親が避けるのは当然の自己防衛だろう。
それをなぜ「風評」というのか。〈東電の原発事故→農作物の放射能汚染→当然、売れない〉、これが真相である。ところが、ここに「風評」という言葉が入ると〈東電の原発事故→農作物の放射能汚染→風評→消費者が買わない→このため売れない〉という流れに変わる。
つまり桃が売れないのは消費者の判断が間違っているということになり、農家と消費者の対立の構図が生まれる。その結果、ほんとうの原因である東電が隠れてしまう。誰が持ち出したか、「風評」という言葉は事態の本質をはぐらかす罪作りな言葉なのだ。
俳諧や俳句の「俳」とはもともと批評、批判の意味である。つまり批評精神がなければ俳句ではない。俳句をする人には福島の農作物が売れない責任は消費者ではなく、東電にあるという問題の本質が見えていなければならない。
政府の広告に煽られて「フクシマの桃」を俳句に詠む。そのどこに批評精神があるというのか。どこが俳句なのか。批評精神を欠いた国民にも俳句にも未来はない。(「古志」10月号から転載)
