藤英樹 says:2013年12月6日 at 12:49 PM
芝居と詩歌Vol.8 源融(みなもとのとおる)
「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルといわれているのが、平安時代前期の貴族・源融(八二二~八九五年)です。嵯峨天皇の第十二皇子に生まれ、皇族として史上初めて、臣籍降下し源の姓を名乗りました。京都・六条河原に広大な邸「河原院」を構えたことから「河原左大臣」の異名もあります。
平安の貴族たちは、実祭には訪れたことのないみちのくの歌枕に思いをはせ、和歌にさまざま詠みましたが、融のすごいところは、みちのくの塩竃(現在の宮城県)を実際に河原院の中に造ってしまったことです。現在の兵庫県尼崎市辺りの三つの浦から、一日三千人の人夫に海水を運ばせて、邸内で汐汲みができるようにしたそうです。
世阿弥は、その河原院を舞台に、傑作「融」という能を書きました。
融亡き後、主を失って荒れ果てた河原院を、諸国を巡る旅僧が訪ねます。月に照らされた廃墟を眺め、融の栄華に思いをはせていると、腰蓑に汐汲み桶を手にした老人(尉の面を着けた前シテ)が現れます。
老人が「月もはや、出汐になりて塩竃の、浦さび渡る、気色かな…汐馴れ衣袖寒き、浦曲の秋の夕べかな、浦曲の秋の夕べかな」と語ります。
僧が「不思議や、ここは海辺にてもなきに、汐汲みとは誤りたるか、尉殿」と尋ねると、老人は「河原の院こそ、塩竃の浦候ふよ、融の大臣、陸奥の千賀の塩竃を、都の内に移されたる海辺なれば、名に流れたる河原の院の、河水をも汲め、池水をも汲め、ここ塩竃の浦人なれば、汐汲みとなど思さぬぞや…」と答えます。
やがて僧も興が募り、「げにげに月の出でて候ふぞや、面白やあの籬が島の森の梢に、鳥の宿し囀りて、四門にうつる月影までも、孤舟に帰る身の上かと、思ひ出でられて候」と眼前に海を思い浮かべます。二人は中国唐代の詩人・賈島の有名な詩を唱和します。
鳥は宿す池中の樹
僧は敲く月下の門
推すも
敲くも
古人の心
今目前の秋暮にあり
僧から「なほなほ陸奥の千賀の塩竃を、都の内に移されたる謂はれ御物語候へ」と求められた老人は融の大臣の思いを語ります。しかし融亡き後は「相続してもてあそぶ人もなければ…」とその後の荒れ果てた様子を語り、
君まさで煙絶えにし塩竃のうら淋しくも見え渡るかな
と紀貫之が河原院の廃墟を哀傷した「古今和歌集」の歌を引くのでした。
この後、老人は僧に河原院から眺める名所の山々を教えます。
あれこそ音羽山候ふよ
語りも尽くさじ言の葉の
歌の中山清閑寺
今熊野とはあれぞかし
まだき時雨の秋なれば
紅葉も青き稲荷山
もちろん河原院からこうした山々が実際に見えようはずもありません。すべて老人の心に映る風景です。
やがて老人は消えてしまいます。
そして後場、旅寝している僧の前に、中将の面を着けた後シテ・融の霊が現れます。
融の大臣とは我がことなり、我、塩竃の浦に心を寄せ、あの籬が島の松陰に、明月に舟を浮かめ、月宮殿の白衣の袖も、三五夜中の新月の色…あら面白や、曲水の盃
融の霊は謡いながら早舞を舞います。そして夜明けが近づくと、名残を惜しみつつ、月の都に帰っていくのでした。能楽師にとって体力、気力をふりしぼる大曲です。
河原院は現在の京の町中、東本願寺付近にあったとされ(今ある同寺の庭園・渉成園とは別所ですが)、本塩竃町という地名も残っているそうです。
融は左大臣に累進しながらも、当時権勢を誇っていた藤原氏に抑え込まれ、その不満から嵯峨の別邸(現在の清涼寺)に引きこもりました。政治家としては不遇に終わったようです。現世での不遇、疎外感が、河原院という理想郷を造らせたのでしょうか。