藤英樹 says: 2013年10月4日 at 8:22 PM
芝居と詩歌 vol.6 在原業平
平安時代の六歌仙の一人、在原業平(八二五~八八〇年)といえば、「古今和歌集」の
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
名にし負はばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと
などの和歌でよく知られていますが、同時に高貴な女性との禁忌の恋愛でも名をはせています。業平がモデルといわれ「昔男…」で始まる「伊勢物語」には、二条后(清和天皇の女御)や伊勢斎宮(内親王)との男女関係が描かれています。さぞかし色男だったのでしょうし、当時の女性にもてる必須条件である和歌の才能もものをいったのだと思います。
そんな業平が年老いて登場する能が「雲林院」です。諸説ありますが世阿弥(一三六三~一四四三年?)の作品といわれており(昭和十六年に奈良で世阿弥自筆本が発見されました)、今年がちょうど世阿弥生誕六百五十年に当たることから、この夏も国立能楽堂で上演され、業平を梅若玄祥が演じました。あらすじは
「伊勢物語」を日ごろ愛読している芦屋(兵庫県)の里の公光(きんみつ)という男が、京・紫野の雲林院の業平と二条后の夢をみたので、雲林院を訪ねます。折しも桜の花が満開で、公光が花を手折ると、老人が現れて手折ったことを咎めます。老人は自分が業平であることをほのめかして消えます。公光が花の下で仮寝すると、夢の中に業平と二条后が現れます。二人は武蔵野に逃げて塚に身を隠しますが、后の兄の藤原基経が鬼神の姿で追ってきて、塚に隠れている二人を見つけ出し、后を連れ帰りました。やがて公光が夢から覚めると、そこは武蔵野ではなく、雲林院の花の下でした。
この能の前場の見どころは、花を手折った公光とそれを咎めた老人(業平)との問答でしょう。それぞれ和歌を入れて、自説を主張し合います。公光が
何とて素性法師は、見てのみや人に語らん桜花手毎に折りて家苞にせん、とは詠みけるぞ
と花を手折って土産に持ち帰ることも風流と言えば、業平は
さやうに詠むもあり、またある歌には、春風は花のあたりを避ぎて吹け心づからやうつろふと見ん、春の夜のひと時をば千金にも替へじとは、花に清香月に影、然れば千顆万顆の玉よりも、宝と思ふこの花を、折らせ申すこと候まじ
と千顆万顆の玉より大切な花を手折ることは許せないと反論します。花に執心する六歌仙の面目躍如といったところでしょうか。ところが、後場になり鬼神姿の基経が登場してからは、今度は「昔男」の業平の姿が色濃く描かれます。
基経が塚に隠れていた業平と后を見つけると、地謡がうたいます。
松明振り立てて、塚の奥に入りて見れば、さればこそ案のごとく、后はここにましましけるぞや、げにまこと名に立ちし、まめ男とはまことなりけり、あさましや世の聞こえ、あら見苦しの后の宮や
「まめ男」とは好色な男のことで、もちろん業平。「あさましや」と軽蔑された業平は「伊勢物語」百二十三段の(古今和歌集では業平の歌とされている)、女に飽きた男が詠んだ歌を入れて、語ります。
年を経て住み来し里を出でて往なばいとど深草野とやなりなん、と亡き世語りも恥づかしや(この女と住んだ里を私が出て行けば、なお草深い野になってしまうだろう、と後の語り草になるのも恥ずかしいことだ)
これに基経が、百二十三段の女の返歌を入れて、続けます。
野とならば鶉となりて鳴き居らん狩だにやは君が来ざらん、と慕ひ給ひしもあさましや (草深い野となっても私は鶉となって鳴き続けましょう、と業平をお慕いになられたのもあさましいことだ)
さらに業平と基経は「伊勢物語」九段の歌(唐衣着つつ馴れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)を上の句、下の句に分けて、語り合います。
業平 げに心から、唐衣着つつ馴れにし妻しあれば
基経 はるばる来ぬる、恋路の坂行くは、苦しや宇津の山
業平 現か夢か行き行きて、隅田川原の都鳥
大歌人と好色男、両面をしっかり描き込んだ能といえるでしょう