《500句》海のはらわた 松川まさみ
『自選五〇〇句』において、俳句に何が開かれたかを明らかにしたい。今年の『古志』三、四月号の長谷川先生の鮟鱇の句をきっかけに解りかけてきたことがある。
鮟鱇は己が重さにぐつたりと
鮟鱇は口のみとなり笑ひけり
笑ひつつ鮟鱇煮ゆる鍋の中
鮟鱇は海のはらわた煮ゆるなり
この中で「海のはらわた」が異質である。
日常生活や体験、あるいは眼前の景を鮮しい言葉で詠むという俳句ではない。むしろそこから離れ抜け出たときに、ふっと感じる何か、すっとよぎる気配。まだ言葉にならない感覚ーそれを内面化させ、きちんと自覚して言語化する。そして詠む。「海のはらわた」にはそういう流れがみえる。
多分それは、見たことも聞いたこともない、独自の言葉。それでいて読み手が深く頷く俳句。つまり読み手の中にも言語化されていないその感覚があって、俳句を読むことによって呼び起こされるということ。『自選五〇〇句』には、そういう俳句が打ち立てられる過程が示されている。
はじめからそれはあった。
春の水とは濡れてゐるみづのこと
深山蝶飛ぶは空気の燃ゆるなり
それが『五〇〇句』の「現在」になると、色調もとりどりに濃密に現れてくる。
さまざまの月みてきしがけふの月
という独白、嘆息にはもちろん、
大宇宙の沈黙をきく冬木あり
天地微動一輪の梅ひらくとき
という叙景句とみえる句にも「海のはらわた」が示されている。
青空のはるかに夏の墓標たつ
夏空の天使ピカリと炸裂す
暗闇の目がみな生きて夜の秋
紅や炎天深く裂けゐたり
培った想像力と言語量が土台にあると知れば、私はこれまでの怠慢を又も恥じ入るばかり。『五〇〇句』(読み手として力不足を感じる句が並ぶ。それは楽しいこと)を手に、私なりに歩むより他はない。