《俳句の相談》なぜ「春の蝶」というのか
【相談】
方丈の大庇より春の蝶 高野素十
「蝶」はそれだけで春の季語なのに、なぜ「春の蝶」という傍題があるのですか?
【回答】
この質問は問題の立て方が逆です。おそらく自由なはずの頭が何かに縛られているのです。
人間は小さいころから小学校、中学校と10年、20年と学校に通います。学校をはじめ教育(学習、勉強)機関は何のためにあるのか。学校や教育(学習、勉強)の目的は何か。
この質問をすると十中八九、知識を得るため、さらに知識を得ていい職業に就き、さらにはお金持ちになるためという答えが返ってきます。学校で身につけた知識で人より偉くなるためということです。
しかし誰でも自分の人生を振り返ってみればすぐわかるはずですが、知識というものは得れば得るほど、この世界(宇宙)は自分の知らないことばかりという厳然たる事実の前に立たされます。つまり自分がどんなに無知であるかということに気づかされます。
では教育(学習、勉強)の目的は何か。あたらめてこの問題に帰ってくるのですが、その目的はこの不思議に満ちた世界(宇宙)を前に誰もが「自分の頭で自由に考えることのできる人間」になるためです。長い間、学校に通って学ぶのは、「自分の頭で自由に考える」ための材料を提供しているにすぎません。
ところが、このことがしっかりとわかっていないと、教育(学習、勉強)を受ければ受けるほど、いろんな知識で頭ががんじがらめになってしまいます。こうして「いい子」ついには「社会の優等生」「俳句の優等生」ができあがります。
質問の趣旨は、「蝶」といえばそれだけで春の季語なのに、なぜ「春の蝶」というのかということでした。はじめに問題の立て方が逆であるといったのは、それはこの質問自体が俳句の考え方、俳人の考え方、歳時記の考え方に縛られているからです。
何も「蝶」だけの問題ではありません。俳句では「月」といえばそれだけで秋の季語ですが、「秋の月」ともいいます。これはなぜかと一度、俳人ではなくふつうの人になって考えてみてください。
「蝶」も「月」も一年中、存在します。ですから、ふつうの人は蝶は春の季語、月は秋の季語と考えません。そこで「蝶」も「月」もそれぞれの季節をかぶせて「春の蝶」「夏の蝶」「秋の蝶」「冬の蝶」、「春の月」「夏の月」「秋の月」「冬の月」というのです。このほうがふつうの感覚です。素十の句はこのようなふつうの感覚に根ざしたおおらかな句です。蝶は春の季語、月は味の季語と考えるのは歳時記を学び、歳時記の考え方に縛られている人だけです。
こう考えると「蝶」はそれだけで春の季語なのに、なぜ「春の蝶」というのかという疑問はそもそも生まれません。これで質問そのものが俳句の知識に縛られているということがわかるはずです。
俳句のさまざまな問題に向かうとき、自分の頭で自由に考えてください。そのためには「自分の頭は何かに縛られていないか」といつも気をつけておくのは大事なことです。