〈俳句相談〉コロナで「座の文芸」はどうなるのか?
【相談】
「座の文芸」と言われる俳句ですが、コロナ禍のために「座」を組むことが禁止されて一年を過ぎました。コロナはも変種(変異株)も出てきて、この先、何年間続くのか見当もつきません。
「座」は人が生きていくための根本条件ですが、これが否定されたら「座の文芸」俳句は即座に消滅するしかないでしょう。インターネットでカバーできるのはチャチな範囲と思われます。この難局にあたり、お考えや如何にと思っての投稿です。
【回答】
「座の文学(文芸)」といわれる俳句はコロナによって消滅するのでは、と心配されているようですが、これにお答えするには、まず前提となっている「座の文学」について考えなくてはなりません。
俳句は「座の文学」とよくいわれますが、はたして俳句は「座の文学」なのか。たしかに俳句の世界に「座」という言葉は昔からあります。しかし俳句が「座の文学」といわれるようになったのは、そう古いことではなく戦後のことです。それには次のような背景があります。
戦前、革命思想として禁圧されていたマルクス主義は1945年(昭和20年)の終戦後、解放されました。それ以来1991年(平成3年)12月に突然ソ連が崩壊するまで半世紀近くつづいた東西冷戦時代、日本国内ではマルクス主義が大きな力をもち、さまざまな分野に影響を及ぼしました。俳句におけるマルクス主義の影響の一つが「俳句は座の文学である」という考え方です。
「座の文学」を最初に唱えたのは尾形仂ですが、簡単にいえば、俳句は一人で作るものではなく、みんなで作るものだという考え方です。これは一人で作るものよりみんなで作るもの(共同制作)が優れているというマルクス主義の根本思想に基づいています。たしかにこの考え方は俳句の一面を言い当てはているのですが、本質的な問題を見落としています。
大岡信の『うたげと孤心』も日本文学における座としての宴の重要性を説いたものと考えられていますが、この本を最後まで読めば、『梁塵秘抄』を編集した後白河院の孤心について大半が当てられています。大岡はここで文学の宴=座を成り立たせているのは、文学者の孤心であるといっているのです。俳句を「座の文学」と割り切ると、座を成り立たせている孤心を見失うおそれがあります。俳句を単純に「座の文学」と考えないほうがいいということです。
さらに「俳句は座の文学」という考え方が、それ以後の俳句をどれほど甘やかしてきたか、いいかえれば孤心を疎かにさせてきたかを忘れてはなりません。
コロナ禍における俳句のあり方も、このことを前提に考えなくてはなりません。会場に集まっての句会ができないからといって、俳句が消滅するわけではない。座よりも大事なのは俳人の孤心であり、座が必要であれば、会場形式に代わる句会を新たに作ればいいだけのことです。
ZOOMなどのWEB句会は会場形式の句会に匹敵するどころが、それを上回る可能性をもっています。最大の魅力は空間を超越できること、これまで句会に参加するのが難しかった遠隔地の人でも世界中どこからでも句会に参加できます。
私は去年4月からZOOMで句会を開いており、アメリカや東南アジアの人も毎月参加しています。これからはこのようなWEB句会が新しい座になってゆくでしょう。そのWEB句会でも座より重要なのは参加者一人一人の孤心ではないでしょうか。