俳句の相談 俳句の批評性について
【相談】
以前、本歌取りの句が成り立つ条件として「その句に批評があるかないか」をあげてをられましたが、「俳句の批評性」とはどのようなことかを教えてください。
【回答】
まず自然であれ社会であれ自分自身であれ、何ものかへの批評を欠いては文学は成り立ちません。いいかえれば「無批評な文学」など文学ではありません。このことは人類の文学の歴史をみても、あるいは名作といわれる作品をみてもわかります。
文学に批評が欠かせないのは俳句にかぎったことではありませんが、ことに極小の文学である俳句は批評性を凝縮した文学であるということができます。俳句の歴史をみても連句(歌仙など)の付句は前句への批評であり、連句のこの批評性が一句に集中したものが発句つまり俳句なのです。
俳句の「俳」という字は喜劇役者の意味ですが、喜劇がもたらす笑いは現実への批評を核にしています。このことは『俳句の誕生』(筑摩書房、2018年)に詳しく書きましたのでお読みいただければ幸いです。
和歌における本歌取りも本歌に対する批評を核にしています。ただまねるだけではまともな本歌取りの歌にはならず、その歌人なり時代なりの独自の視点(批評の視点)を要求しました。
俳句の本歌取り(本句取り?)についても同じことがいえます。というよりも本句取りの俳句にかぎらず、すべての俳句にその俳人なり時代なりの独自の視点(批評の視点)がなければなりません。批評こそが俳句の本質なのです。本句取りの句のよしあしも、この観点からとらえるべきものです。
このことはどんな句をよしとするか、どんな句を選ぶかという「俳句の選」の問題に直結しています。句会などではややもすると「どこかで見たような句」を選びがちなのですが、それは共感ではあっても「選」とはいえません。そんな「選」では類句・類想の山を築くことになります。
「俳句の選」とはその句のどこが今までとは違うかを見極めてその評価を下すこと、つまり選句もまた批評です。