さうぶ湯やさうぶよりくる乳のあたり 白雄
端午の節句には青く香しい菖蒲の葉を湯舟に投じて菖蒲湯を立てる。見れば菖蒲の葉がゆらりと胸元へ漂ってきた。ゆったりとした詠みぶり。菖蒲は旧仮名で「しやうぶ」、「さうぶ」とも書く。旧暦の端午の節句は今の六月初めごろだった。『白雄句集』
さうぶ湯やさうぶよりくる乳のあたり 白雄
端午の節句には青く香しい菖蒲の葉を湯舟に投じて菖蒲湯を立てる。見れば菖蒲の葉がゆらりと胸元へ漂ってきた。ゆったりとした詠みぶり。菖蒲は旧仮名で「しやうぶ」、「さうぶ」とも書く。旧暦の端午の節句は今の六月初めごろだった。『白雄句集』
竹の子の力を誰にたとふべき 凡兆
筍の中にはやがて竹となったときの節がぎっしりと詰まっている。一つ一つの節の伸びる力が合わさればまさに百人力。凡兆の句、「豊国にて」と前書がある。太閤秀吉が葬られた京都東山の阿弥陀ヶ峰の麓での句。竹の子とは秀吉だった。『猿蓑』
釣鐘にとまりて眠る胡てふ哉 蕪村
蝶ほど軽やかな生きものはいないだろう。風の化身のようにひらひらと飛びめぐる。「胡てふ」(胡蝶)とは蝶のこと。遊び疲れたのか、今、一羽が釣鐘の冷やかな肌にすがって羽を休めている。静かな春の真昼、蝶も釣鐘も眠っている。『俳諧発句題苑集』
さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉
桜の花は思い出を映し出す鏡。芭蕉はある年の春、久々に郷里の伊賀上野を訪ね、かつて仕えた旧主藤堂家の別邸の庭で花見をした。無心に咲き誇る桜を前にして芭蕉の胸中に二十年以上も昔に若くして亡くなった主君の面影がよみがえる。『笈の小文』
はなみちてうす紅梅となりにけり 暁台
白梅が清楚であるのに対して、紅梅は華やか。満開ともなると、にわかに天地が明るむような気がする。暁台の句、花盛りの薄紅梅。咲き満ちるといえば濃い紅を想像するが、咲き満ちてなおも薄紅であるところに一皮向けた華やぎがある。『暁台句集』
古き世の火の色うごく野焼かな 飯田蛇笏
在原業平が主人公という「伊勢物語」に武蔵野の野焼の話がある。娘を連れて逃げた若者が追っ手に捕まる。娘は野に隠れるが、火を放たれて捕えられる。蛇笏は野焼を眺めながら、そんな遠い昔の恋物語を思い出したのではなかろうか。『山廬集』
くれなゐの色を見てゐる寒さかな 細見綾子
「くれなゐの色」とあるが、このとき作者は何を見ていたのだろうか。鏡に映る口紅、シクラメンの花、雲を染める夕焼け。ひたすら生きてきたあかあかと輝く命。そんな何かが形を失い、紅の色そのものとなって寒気の中で燃えている。『冬薔薇』
放心をくるむ毛布の一枚に 山田弘子
一枚の毛布に寒々とくるまるこの女性の背後には一瞬で瓦礫と化した神戸の街が広がる。十年前の一月十七日早朝、阪神淡路を襲った大地震。自然の猛威にさらされれば誰でも毛布一枚にくるまる運命。かくも柔らかな生きもの、人間。『阪神大震災を詠む』
七草の粥のあをみやいさぎよき 松瀬青々
春の七草は芹、薺、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ。すずなは蕪、すずしろは大根。どれも野山にいち早く訪れた春のかすかなことぶれ。この七草を刻んで投じた七種粥は炊き上がると緑に染まる。初春の野の草の清らかな緑。『鳥の巣』
宝舟日本からも一人乗り 「柳多留」
七福神と宝の山を乗せた宝船。いい初夢を見るために、その絵を枕の下に忍ばせて寝ることがはやった。七福神は恵比須、大黒、毘沙門天、弁天、福禄寿、寿老人、布袋の七人。このうち日本の神様は恵比寿だけ、残る六人はみな舶来の方々。『柳多留』