いちまいの皮の包める熟柿かな 野見山朱鳥
朱鳥は十代の終わりに肺結核になり、五十二歳で亡くなるまで闘病生活を送った。その人の目に熟柿は一枚の薄皮によってやっと形を保っているかのように映った。人の命もまたという思いがあっただろう。昭和二十一年、二十九歳の吟。『曼珠沙華』
いちまいの皮の包める熟柿かな 野見山朱鳥
朱鳥は十代の終わりに肺結核になり、五十二歳で亡くなるまで闘病生活を送った。その人の目に熟柿は一枚の薄皮によってやっと形を保っているかのように映った。人の命もまたという思いがあっただろう。昭和二十一年、二十九歳の吟。『曼珠沙華』
栗一粒秋三界を蔵しけり 寺田寅彦
一粒の栗の中に広大な秋の天地が広がっている。物理学者の寺田寅彦は熊本の五校時代に英語教師だった夏目漱石に俳句を学んだ。「三界」は仏教で全宇宙を表わす三千大千世界の略。小さなものの中にこそ大きな世界が開ける。俳句も同じ。『寅日子句集』
女郎花みるに心はなぐさまでいとゞ昔の秋ぞ恋しき 藤原実頼
女郎花を見ても慰められるどころか、かえって二人でこの花を眺めた昔の秋が恋しいと亡き妻をしのぶ。「新古今集」哀傷歌。実頼は関白太政大臣、摂政まで務めた人。昔は位を極めた人もこんなに優しい歌を詠んだ。『新古今和歌集』
小刀の刃に流るるや梨の水 毛条
正岡子規は「くだもの」という随筆で梨の水気の多さをたたえている。その果汁が病の子規の喉を潤した。毛条は江戸中期の人。当時の梨は今ほど甘くなかったろうが、果汁はたっぷりあったようだ。梨の汁も「梨の水」といえば品がある。『松のそなた』
白を着て娘ざかりや涼新た 岩井英雅
夏の涼しさは立秋を境に新涼へと改まる。娘盛りといえば十六、七歳だろうか。句からは白いシャツやワンピースの似合う溌剌とした姿を想像する。あんなに小さかったのに、いつの間にか、すっかり大人びた娘をまぶしそうに眺める父。『東籬』
人声を風の吹とる花火かな 涼菟
花火は大航海時代に南蛮人によって日本にもたらされた。今では遊園地などで年中、打ち上げているが、もともと初秋のものである。涼菟の句、花火見物のざわめきを夜の涼風がさっとさらってゆく。そこに忍び寄る秋を感じとっている。『皮籠摺』
夏痩もねがひの中のひとつなり 如真
夏痩でもいいからほっそりとなりたいのが女心。現代風俗かと早合点しそうだが、芭蕉が選んだ最後の選集「続猿蓑」にある。夏痩で面やつれした女性が「恋の病じゃないの」なんて、からかわれていたりするのも、夏の終わりらしい風情。『続猿蓑』
羅の中になやめりねぶのはな 支考
肌が透けてみえるほど薄く織った絽、紗、オーガンディなどの布地が羅。着物や服に仕立てるが、「羅の中に」とあるからここでは帳だろう。「ねぶ」は合歓。ほのぼのとして薄紅の花に、帳のかげで恋のもの思いにふける美女の姿を重ねた。『継尾集』
朝起の顔ふきさます青田哉 惟然
青田を吹き渡る風は暑さを忘れさせてくれるものの一つ。ことに夕立のあとの青田風は涼味満点だが、明け方に吹く風も劣らずいい。朝、まだ眠たげな顔を青田の風が撫でてゆく。心地よいばかりか、一面の緑が眠気も覚めるほど鮮やか。『住吉物語』
青蛙おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介
フランスの作家ジュール・ルナールに「青蜥蜴」と題した一行詩「ペンキ塗り立て!」がある。芥川は同じ時代の人。フランスの蜥蜴と日本の蛙。時は十九世紀から二十世紀への変わり目、詩人と小説家による地球の西と東からの掛け合い。『餓鬼句抄』