俳句の相談 波郷の句の解釈
【相談】
石田波郷の句に例えば次のようなものがあります。
秋めくや焼鳥を食ふひとの恋
私にはこの句の意味がさっぱりわかりません。何が秋めいているのか? 誰が焼鳥を食べているのか? 作者が食べているのか? 作者が食べているのだとすれば、作者が恋をしていると解釈していいのか? 文芸のにおいを感じることができないのは私だけなのか? 世の句作者たちは、みんなこの句を理解しているのか? 考えていると、私の劣等感さえ感じます。
波郷にはほかにこんな句もあります。
蝌蚪の死ぬ土くれ投げつ嘆かるる
初鰹ひとの母子の身の辺
乙女の体操夫人ら秋日ひさに浴び
これらも、どう解釈すればいいのかわかりません。場面設定も、何を訴えているのかわからないのです。このような句が投稿されれば採用されるのでしょうか。
こういった句の解釈をするためにはどうしたらいいのでしょうか?
【回答】
いくつか考えておかなければならないことがあります。
まず波郷のような評価の高い俳人といっても、名句ばかりではないということです。なかには、何をいっているかわからない句も駄句もたくさんあります。これは芭蕉も虚子も楸邨も龍太も同じです。
そこで、挙げておられる「秋めくや」の句のように何をいっているかわからない句、あるいはつまらない句に出会ったら、どうしたらいいか。その句の前を敬意を以って黙って通り過ぎるほかありません。波郷の句だからといってあがめる必要はありません。率直にダメなものはダメであると評価すること、これが俳句です。
ただメールには「この句の意味がさっぱりわかりません」とありますが、この「わかる」ということにはふたつの意味があることを知っておいたほうがいいと思います。
一つは論理的に句の「意味」がわかるということ。ふつう「解釈」とはこのことをさしています。もう一つは直観で句の「風味」がわかるということ。散文 いわゆるふつうの文章の場合、第一の意味がわかるということが決定的に重要ですが、韻文、とくに短い俳句では逆に風味がわかることが決定的に重要です。
ですから意味がわからないので駄句だということにはなりません。それどころか、名句は意味が通らないものが多い。なぜなら俳句の「切れ」とは言葉の論理(意味)を切断するものだからです。ちなみに波郷は「切れ」を追究した俳人でした。
さて「秋めくや」の句は私にも「さっぱりわかりません」。あとの3句は意味をとろうとすればどうにか、とれる句ではありますが、散文的でおもしろくありません。よって波郷に敬意を表して通過するのみ。