藤英樹 says:2013年8月16日 at 7:27 PM
芝居と詩歌 vol.5
源平の争乱時代を生きた大歌人・西行(一一一八~一一九〇年)といえば
ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃
という歌がよく知られています。平将門の乱を平定した俵藤太(藤原秀郷)の嫡流に生まれ、俗名佐藤義清(のりきよ)として鳥羽上皇に仕えて北面の武士となりますが、二十三歳のときに突然出家してしまいます。そして東は奥州から西は九州まで旅し、数々の歌を詠みました。四十五歳年下の藤原定家らが編纂した「新古今和歌集」には最多の九十四首が採られています。七十二歳で冒頭の歌に詠んだ通り、旧暦二月十六日(新暦の三月半ば)の花が咲きだす頃に河内国(大阪東部)の葛城山の麓で亡くなりました。
西行の歌集「山家集」(岩波文庫)を読むと、現代の我々にもすっと理解しやすい歌が多く並んでいます。新古今の時代はどちらかといえば技巧的な歌が多いのですが、こと西行に関しては直截に心情を吐露しているように思います。「山家集」の緒言は「非凡なる感受性と非凡なる歌才とを以てし」「直情流露して、人の胸にしみとほるものある」とする一方で、「往々辞句の正確を欠き、構想の不用意に過ぐるものが無いではない」とも指摘しています。
そんな西行の歌をモチーフにした能作品も、うっかり詠んだ不用意な歌が誤解を招いてしまうという大歌人らしからぬ展開になっています。よく上演されるのが世阿弥作の「西行桜」です。
京都西山の庵で独り静かに桜を楽しもうと、西行は他人が来ないように花見禁制の触れを出しますが、盛りの桜の噂を聞いて下京から人びとがやって来てしまいます。迷惑に思った西行は
花見にとむれつつ人のくるのみぞあたら桜のとがにはありける
と、俗人たちがやって来るのは桜の咎だと非難めかして詠みました。すると夜更けて寝ている西行の枕辺に老桜の精が現れて、西行の歌に「桜に浮き世の咎はない」と反論します。同時に大歌人西行に会えたことを喜びもし、舞うのでした。
「西行桜」に似た作品に観世信光作の「遊行柳」がありますが、こちらは栃木県の歌枕・遊行柳の下で西行が詠んだ
道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ
という歌を柳の精が自慢げに物語る話です。大歌人の歌をありがたがる「遊行柳」に比べると「西行桜」のほうが大歌人の不用意な歌に反論するという点で、一段工夫が凝らされていて面白みがあると思います。
西行のうかつな歌をモチーフにしたもう一つの作品が観阿弥作の「江口」でしょう。
諸国を巡る僧が大阪・天王寺近くの江口の里に着き、ここで昔西行が遊女に一夜の宿を求めたものの、遊女に断られ恨み言めかして
世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりを惜しむ君かな
と詠んだ歌を口ずさみます。すると遊女の霊が現れて「宿を貸すことを惜しんで断ったのではない。(西行の)出家の身を案じて遠慮したのです」と反論します。「山家集」には遊女の返歌として
家を出づる人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ
が並んでいます。観阿弥はこの歌にモチーフを得たのでしょうか、遊女の霊が後シテでは普賢菩薩となり、浮き世への執着を捨てれは心に迷いは生じないという仏教の教えを説く奥深い話に展開させています。出家した西行といえども時には俗世(遊女)に思いを留めることがあり、それを見逃さず、苦界に身を沈める遊女を普賢菩薩の化身であるとする観阿弥の構想力の大きさに驚かされます。