藤英樹 says:2013年6月22日 at 1:58 PM
芝居と詩歌 vol3
じめじめと降り続く梅雨時でなかったら明智光秀も主君・織田信長を討とうなどとは考えなかったかもしれません。「本能寺の変」として知られる光秀の謀反は、1582(天正10)年6月2日の明け方に起こりました。6月2日は旧暦で、新暦では6月21日。その日雨が降っていたかは分かりませんが、梅雨時の気候が人間の心理に影響を与えることは十分あり得ます。
時は今雨が下しる五月哉
これは光秀が謀反を決断したときに詠んだ句です。本能寺にほど近い京・愛宕山の宿所で連歌師・紹巴らと巻いた歌仙の発句だったそうです。「時は今」と上五で鋭く切れ、中七下五で梅雨の重苦しさを一気に詠み下しています。句には、裏の意味があります。すなわち「時」は明智家の本家である美濃源氏の姓「土岐」に、「雨」は「天」に、「しる(領る=占領する)」は「知る」に掛けています。
名族土岐一門の明智が織田を滅ぼすのは今このときだ。梅雨に降り込められている天下の人々もやがて知ることになる五月であることよ
この句を物語の展開の軸にしたのが、鶴屋南北作の歌舞伎「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」です。江戸幕府をはばかって、織田信長は小田春永、明智光秀は武智光秀と少し変えてありますが、謀反前夜の重苦しいやりとりが描かれています。時代物を得意とする初代、二代の中村吉右衛門が当たり役にしています。
春永から勅使饗応役を命じられた光秀ですが、饗応の場に武智家の家紋である桔梗の幔幕を使ったため、猜疑心の強い春永の激しい怒りを買います。光秀は春永の寵臣・森蘭丸に鉄扇で額を割られ、馬に水を飲ませる馬盥で酒を飲まされ、揚げ句は光秀の貧しかった浪人時代、妻が生活の糧に売った黒髪を見せられ、侮辱されます。これでもかという春永の激しいいじめに、光秀はマゾヒストのように忍従します。内心の怒りはとうに沸点を超えているはずですが、それをおくびにも出さず宿所に戻る光秀。春永からの領地替え(左遷)を知らせる上使を水裃で迎え、三方に乗せた刀で切腹の覚悟を見せます。ここで光秀が辞世に詠むのが「時は今」の句。ところが上使が油断したところで光秀の形相は一変、上使を斬り捨て、三方を踏み砕いて、兵を挙げます。
粗暴で猜疑心の強い春永、有識故実に通じた教養人の光秀。天下統一をめざす春永にとって自分にない才能を備えた人材として光秀をスカウトしたのでしょうし、ある時期まではプラスとマイナスの磁石のように互いに引き合い、良好な関係を続けていたのかもしれません。しかし天下統一が目前に迫り、さらに羽柴(豊臣)秀吉のような人たらしが春永の覚えめでたく出世するようになると、光秀の心には「敬意を払うに価しない主君…」、それを鋭く感じ取った春永には「鼻持ちならない部下…」という鬱憤が徐々に募っていたのでしょう。一つの出来事をきっかけに、性の不一致による日ごろの鬱憤が爆発し、謀反決断にまで至る様子が、梅雨時の薄暗い舞台に展開します。
句が物語展開の軸になっているもう一つの歌舞伎芝居が「松浦の太鼓」でしょう。やはり初代、二代の中村吉右衛門の当たり役。こちらは時代が下って、赤穂浪士の吉良邸討ち入り前夜、年の瀬の江戸が舞台です。
雪の降り積もる両国橋で俳人の宝井其角が、赤穂浪士の大高源吾と偶然出会います。源吾は其角の俳諧の弟子でしたが、浅野内匠頭の刃傷事件で赤穂藩が取り潰しになってからは音信不通でした。源吾の貧しげな煤竹売りの姿を見て其角は、句仲間の平戸藩主・松浦侯から拝領した羽織を源吾に与え、別れ際
年の瀬や水の流れと人の身は
と詠みました。すると源吾は
明日待たるるその宝船
と下の句を付けたのです。翌日の夜、吉良邸に隣接する松浦侯の屋敷で句会をしていた其角は、松浦侯に源吾の句の話をします。松浦侯は山鹿流の兵法を学んでいたときに赤穂藩家老だった大石内蔵助と同門でした。内心、赤穂浪士が吉良を討つことを期待していますが、いつまでも討ち入りをしない大石に業を煮やし不機嫌でした。しかし源吾の句から「今夜討ち入りがある」ことを悟ります。とそのとき、隣の吉良邸から聞こえてきたのは、聞き覚えのある山鹿流の陣太鼓の音。松浦侯は遂に討ち入りだと雀躍し、助太刀に向かおうとしますが、家来たちに必死に押し止められるのでした。
最初の「時今也桔梗旗揚」に比べると、やや能天気な殿様の話ですが、元禄の頃の俳諧が身分の高い武士階級にも浸透していたことを物語る芝居でしょう。