象に乗るインドの聖 はるばるとゆく者はみな急がず行けり 小島ゆかり
日永とは春の日がなかなか暮れないこと。夏になるともっと日は永くなるが、あっという間に日暮れてしまう冬が去って春を迎えた喜びが、この言葉を生んだ。歌は永き日に心に浮かんだ遠い国の幻。『エトピリカ』
象に乗るインドの聖 はるばるとゆく者はみな急がず行けり 小島ゆかり
日永とは春の日がなかなか暮れないこと。夏になるともっと日は永くなるが、あっという間に日暮れてしまう冬が去って春を迎えた喜びが、この言葉を生んだ。歌は永き日に心に浮かんだ遠い国の幻。『エトピリカ』
花をのみまつらんひとに山ざとの雪まの草のはるをみせばや 藤原家隆
桜の花だけを待つ人に雪間に萌え出た若草をみせてあげたい。「新古今集」時代の歌だが、四百年後の千利休が侘び茶の心を伝えるのに使った。華やかなだけが美しいのではない。雪間の草の緑が抹茶の緑にも通じる。『後京極摂政家百首』
モンローの伝記下訳五万円 丸谷才一
どさりと落ちる軒の残雪 大岡信
連衆四人で巻いた歌仙「新酒の巻」から。マリリン・モンローの伝記の下訳なんぞやっている駆け出しの文士。その軒の残雪が大音響を立てて落ちた。柔らかなバターのような美女の幻を打ち払う一喝。『歌仙』
ほぐれんとして傾ける物芽かな 中村汀女
春に萌え出るもろもろの草や木の芽がものの芽。そこから一枚の葉がほぐれようとして傾いている。コマ落としで撮影すれば、どの芽も右へ左へ身を揺らしながら空へ伸びてゆくのがわかるはずだ。芽をほどくという小さな命の一大事。『汀女句集』
何事もなくて春たつあした哉 士朗
節分の夜は冬と春のつなぎ目。季節の隙間につけこんで悪さを働く鬼たちを豆で追い払って一夜明ければ春。立春は春の生まれる日である。士朗は名古屋城下で名高い産科医。「何事もなくて」とはその人の、無事誕生した春をことほぐ句。『枇杷園句集』
水仙の束とくや花ふるへつゝ 渡辺水巴
水仙は冬の終わりの花。その花束を解くと、長い茎の先の花や莟がさわさわと音をたてて震えた。「ふるへつゝ」にまだ冷え冷えとした空気の感触がある。一方、「束とく」からは春を迎える喜びがこぼれそうだ。春を待つ花でもある。『白日』
日の障子太鼓の如し福寿草 松本たかし
淑気という言葉がある。和やかで清らかな新春の空気をいう。たかしの句、床の間に福寿草の盆が据えてあるのだろうか。日の当たる障子が打てば鳴る太鼓のように張り詰めている。黄金色の花が真っ白な障子に映えて、まさに淑気の句。『野守』
猫に来る賀状や猫のくすしより 久保より江
年賀状の中に猫の医者から猫に来たのが一枚。「久保様方、猫野ミケ子さま」とでもあるのだろうか。掛かりつけの医者がいるくらいだから猫とはいえ下にも置かず大事にされている深窓の猫。作者は現在の九大医学部の教授夫人だった人。『久保より江句集』
著ぶくれて浮世の義理に出かけけり 富安風生
「浮世の義理」とは味のある言葉だ。冠婚葬祭も忘年会もパーティもしがらみといえばしがらみ。この男、一見億劫そうにみえるが、そうばかりでもないらしい。浮世の義理を密かに楽しむ風が着ぶくれの懐からちょっとのぞいている。『朴落葉』
何に此師走の市にゆくからす 芭蕉
何でこの忙しい師走の町へ烏は飛んでゆくのだろうか。琵琶湖の南端膳所での吟。烏を詠んでいるようにみえて、芭蕉はここで自分を烏になぞらえた。俗世間を離れた身でありながら、なぜお前は浮世の巷へ出かけてゆくのだという自問。『花摘』