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平等ということ

句会を貫いている最大の原則は平等ということです。
職業、性別、人間関係などではなく、作品だけで句を選ぶのが句会です。
平等を守るために句会にはいくつかの仕掛けがあります。
・投句のとき、短冊には句だけを書き、無記名であること。
・投句された句は別の人が清記用紙に清書すること。
 筆跡でわからないようにするためです。
・主宰(先生)も会員といしょに(互選の披講の前に!)選句を披講者に渡すこと。
これらの原則が守られていないような句会は句会ではありません。
主宰が互選の披講を聞いて自分の選を直しているならば、その句会はすぐやめたほうが賢明です。

先生の句は?

全部写さない

句会で選句をするとき、清記用紙のすべての句をノートに写している人がいます。
理由を聞いてみると、勉強のためとか作者への敬意という答えが返ってきます。
しかしながら、これはとんでもない見当違いであり、ぜんぶ写すのは百害あって一利なしです。
・披講がそこで滞り、句会に時間がかかる。
・下手な句も写すので、下手になる。
・もっとも大きな問題は選句といいながら、全部写したのでは選句になっていたいということです。
全部写せばあとであらためて選ばなければならないわけですが、たとえばそこでもし倒れれば選句はできません。
全部を写している人は自分はいつまでも生きていると勘違いしている人です。
いいかえれば、いつ死んでもいいという覚悟ができていないわけです。
選句のときは選句をする。
そこで倒れても、その人の選んだ句がわかるというようでなくてはなりません。

作句と選句はちがう

句会にゆけば作ってきた句を出し、当然のように選句をするわけですが、作句と選句はまったくちがいます。
句を作るときは誰でも一生懸命に作ればよい。
「俳句は頑張らないほうがいい」などという人がいますが、とんでもない見当違いです。
ともかく作句のさいにはこの「一生懸命」が大事です。
これに対して、選句では「冷静」になって選ぶ、これが大事です。
この「冷静」は「冷徹」さらに「非情」といってもいいものです。
なぜかといえば、句を選ぶということはその句が文学作品(一編の詩)として成り立っているかどうかを判定することだからです。
くわしくいえば、詠んでいる対象はこれでいいのか? 発想捉え方は? 表現はこれで十分か? そして、こういう作品が過去にないか? あるとすればそれを超えているか?などを判定するわけです。
単に「共感したから」というだけで選んでは行けない。
そうした選ができるようになるには俳句をはじめ文学や世の中の勉強(精進)をしなければなりません。
いいかえると、誰でも句は作れるし、句会にゆけば誰でも選句をしますが、誰もが選句ができるわけではないということです。

互選の点数は意味がない

互選の点数がまったく意味がないのはこのためです。
互選は点数でなく、誰がその句を選んだかが大事です。
いいかえると、選句力のある人がどの句を選んだかこそが大事です。

自選力とは何か