#028俳句の無形文化遺産登録をめぐって(伊藤空 )
2018年7月22日
これから先地球の気候変動が更に進み、季節が壊れてしまった時、子供たちはどのように俳句を学ぶのだろう。
「有季定型」という定義づけがなされた場合、子供たちが学校で俳句を詠むことはなくなってしまうのかもしれない。子供たちはただ国語や社会の教科書で俳句を「読む」だけになってしまうのだろうか。
たとえ将来季節が壊れてしまう日が訪れるとしても、それと共に俳句まで真の「遺産」とならないよう願ってやまない。
#027俳句の無形文化遺産登録をめぐって(伊藤空 )
2018年7月16日
小林凛さんについて長谷川先生が「闘う人」と書かれているのを読んでランドセル俳人の五七五のなかのブーメランの句が浮かんだ。
ブーメラン返らず蝶となりにけり
やはりブーメランは凛さん自身だったのだ。蝶になりたかったブーメラン。そのブーメランが蝶になれるのはそれが力尽きて落ちた時、死んだ時だというのだ。何という句だろう。これを小学生が詠んだのだ。
孤独で苦しい闘いのなか凛さんは俳句を詠み、字の練習を兼ねて丁寧に清書し、凛さんの祖母が大切に学校に持って行った。その時の先生の言葉を思い出し、私は慄然とした。
「俳句だけじゃぁ食べていけませんで」
そう言って、笑ったのだ。
定型でなくてもいい。定型でなくても例外的に許されるのではない。子供たちの個性が尊重され、そんなメッセージを送れるこれからであって欲しい。
#026俳句の無形文化遺産登録をめぐって(伊藤空 )
2018年7月16日
原因については諸説あるようですが、気候の変動はもはや多くの日本人が肌で感じていることではないでしょうか。こういった状況に鑑みると、これから先何十年か、何百年か、或いは何年先か分かりませんが、地球の気候変動が更に進み、季節が壊れてしまうようなことがあるのかもしれません。有季定型という定義づけはその時正に俳句を遺産にするでしょう。やはり俳句はいかなる定義づけからも自由であって欲しいです。守るために登録を目指すということなら強いて言えばその対象は季節であり、問い続けることに本質がある芸術を定義づけて世界遺産に登録するというのはやはりどうもおかしいと思います。
#025俳句の無形文化遺産登録をめぐって(佐々木健一 )
2018年5月21日
近年、俳句関連で有形文化遺産に登録されたものを思い浮かべてみますと、白樺日記は文化遺産だと思います。
白樺日記とはシベリアに抑留中、戦友の死や冬の厳しさを詠んだ俳句を記したシラカバの樹皮。煙突のススを集めてインクにし、空き缶を切って作ったペンでシラカバの樹皮の内側に書き記されたものです。
抑留中は日記などの記録を残すことが厳しく制限されていたそうで、コムソモリスク近郊に抑留されていた瀬野修さんが、やりきれない気持ちをひそかに俳句で残し、ソ連兵の監視の目をかいくぐって日本に持ち帰ってきた記録です。
白樺日記は2016年10月にユネスコ世界記憶遺産に登録されました。
恥ずかしながら十九歳になったころに石原吉郎さんの詩集に関する批評や解説などを読むまでは、シベリア抑留についてまったく知りませんでした。
1945年(昭和20年)8月15日正午に、日NHK(日本放送協会)から放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)の音読放送については中学高校の日本史の授業で取り上げられて教えられましたが、シベリア抑留については丁寧に語られ教えられた記憶がありません。今ではどうなんでしょうね。
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
これは石原吉郎の代表作のひとつ「花であること」の前半です。
「花」と「拮抗」「外部」「重み」「宣言」使用されているひとつひとつの言葉の関係に、こんな詩がありうるのだと、強い印象を受け、俳句の取り合わせということ、コップに水をそそいでゆき溢れそうになるぎりぎりを緊張しながら見ているような、そんな感じだった気がします。
もしも、この詩はシベリア抑留について書かれた詩であると説明されていたならば「花」と他の言葉とのバランスはたやすく知識によって傾いてしまって、十九歳の私は詩とはなんだと悩んだりしなかったと思うのです。
白樺日記に書かれているのが俳句であることに、俳句はどれだけ大衆に親しまれ共にある文芸ジャンルであることかと思いつつ、白樺日記の有形文化遺産登録には賛成です。
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
という金子兜太さんの一句。
これは毎年「原爆忌」の季語を使用して、俳句を詠み悼む活動で後世に戦争の惨禍を忘れずに伝えようと作られる俳句とはたしかにちがうと感じます。
悼むがゆえに沈黙し、つらいので語らずに、まったく違う季語や俳句で心を癒す
という優しい逃避を拒む覚悟のような気
力に、俳句はそれでいいんだ、と(本人の意図は今ではわからないが)指針となった気がするのです。
石原吉郎の詩と白樺日記の俳句は同じ歴史性はあれど、作品としての力がちがうようなものです。
戦争体験をした人たちが老いて亡くなっていくのは時代の流れですが、惨禍と悼む心をどのように伝え育むか、残していくかということを文化遺産に登録されなくとも歳時記に「原爆忌」という季語や例句を掲載して、またその季語で実体験はなくとも、句作するという活動を続けている人は、文化遺産に登録されなくても続けていくものと信じています。
俳句を文化遺産として登録する動きの中で、無形文化遺産に登録したがっているというのも不思議な感じがします。
世界遺産(世界文化遺産、世界自然遺産)、無形文化遺産、日本遺産と三つのうちの、無形文化遺産の登録を目指す意味合いより、むしろ日本遺産の意図の方が強い気がします。
世界遺産は、歴史的・自然的な価値のある遺産の開発や破壊、損傷から保護を目的としています。
白樺の皮がボロボロに朽ちてしまえば、まだあるうちに撮影された画像情報(写真など)が残ればましで、世代交代などで失われる可能性もあるわけです。
無形文化遺産は、グローバリゼーションの進展に伴い,世界各地で消滅の危機にある無形文化遺産(Intangible Cultural Heritage)の保護を目的としています。
「世界各地で消滅の危機にある」俳句という文芸ジャンルなのかということは、たしかに「大衆化」による危機はあるかもしれませんが、大衆に親しまれていなければ白樺日記の俳句もなかったとも思えます。俳句という文芸ジャンルがマンガほど大衆になじんではいないのはたしかではありますし、作品の言葉の変容はありますが「消滅の危機」は感じません。
日本遺産は、有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことで、地域の活性化を図ることを目的としています。
日本遺産に登録すると先に世界文化遺産として保護されている文化財に影響があるかもしれず、だから、あいだを取って無形文化遺産で、そのジャンルに関わる有力団体も保護されるのでこれでよし、と決めたのではないかと疑いたくなります。
恋歌のひとつも知らず夏の海
百人一首の恋歌を読んで忘れて俳句を作りながら、途方に暮れてしまい指を折りながら船歌を思いながら季語の夏の海と書きながら、無形文化遺産に登録されたら、誰がこれを読んでくれるのか。
そんなことをふと思います。
恋歌など、ひとりの恋人に聞いてもらえればよい、とも思うときもあります。
#024 俳句の定義づけについて(伊藤空)
2018年5月8日
俳句が定義づけられても特に変わらない、私は大丈夫という心強いお考えもあると思いますが、今現在、或いは自分自身のこと以上にこの先子供たちが俳句を学び詠むときにどんな影響があるのかが気になります。
個性を重んじることの大切さが叫ばれてから既に長い時間が経っているように思われますが、残念ながらまだ実現しているとは到底いえないようです。「湾曲し」の句を例外や応用と片付けてしまうのではなく、俳句のど真ん中にある句であると子供たちに伝えていけるこれからであってほしいと願っています。
定型でなくてもいい。定型でなくても例外的に許されるのではない。それは子供たちへの力強いメッセージになるのではないでしょうか。絵画や音楽で前衛的なものは例外や応用などと考えている人はいないと思うのですが。
#023俳句の世界遺産登録とポピュリズム(大山アラン)
2018年3月14日
長谷川櫂さんの『俳句の誕生』(筑摩書房)をもう読まれた方も多いと思う。本書では近代大衆俳句について書かれている。大衆化(ポピュリズム)という観点から、再び意見を述べさせていただく。
関根千方さんの「問い続けるしかない」(#021)という考えには、解決し難い問い(アポリア)が混ざってしまっている。
俳句を世界遺産のために定義づけることは誤りである。だとするならば「俳句とは何か」と問うことになる。しかし「俳句とは何か」と問うとき、すでに俳句を定義づけているのである。あらかじめ、ぼんやりと俳句を思い浮かべ(措定)、それを批評するということは、錯誤からの出発になってしまう。これはハイデガーが、他者とは何かを問うことが他者を措定してしまうといったのと、同じことである。
私はいっそのこと「俳句とは何か」問い続けることを放棄することを提案する。なぜならその問いは定義にしか向かっていないからである。俳句において問うべきは「この接続詞は効果的か」といったプラクティカルな問いに限られるのではないか。それによって「一般にそう定義されているだけにすぎない」ものを乗り越えることができるのではないか。
長谷川さんが金子兜太さんの「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」という句について、これが戦後俳句の「真ん中にある句」とした文章は(#022)、注意して読まなければならない。問題は、何の真ん中にある句なのか、ということである。それは「俳人と呼べる人々」(『俳句の誕生』)の内側である。
ややこしいことに、批評を必要としない俳句を趣味にする人や、批評能力のない俳句講師にとっても「彎曲し」の句は戦後俳句の「真ん中にある句」である。しかしそれは、たかだか戦後の代表句なので自分も無季俳句を詠むことが許されたのだと考えているに過ぎない。これは大衆心理である。彼らが必要としているのは「代表」であり「規範」ではない。「許可」であって「能力」ではない。
この句が前例として戦後俳句の「真ん中にある句」と考えるのは、無季なら何を詠んでも現代俳句的になると考える大衆である。
一方で「俳人と呼べる人々」は「彎曲し」の句をよく批判的にみて、規範にしているので「真ん中にある」。
俳句を定義づけるということは、自分の作った句が定義に適合しているか否か、誰かのチェックを受けるということである。それは個人であるにしろ組織であるにしろ「代表するもの」が出現することである。しかし詩歌は階級を持たない(階級を持てばそれはプロバガンダである)。したがって自らを「代表」することができない。それほどに自由主義である。そこに「代表」が現れるとすれば、その「代表」は詩歌を代表しているのではない。それにも拘らず詩歌は「代表」されなければならず、「代表」は詩人の意識の現れというより、ポエジーに対する支配の権威として君臨しなければならないのである。
俳人にとって俳句世界遺産問題など問題のうちに入らないという意見は、この点を見逃している。『俳句の誕生』に即して言えば、ポピュリズムに退行している。
俳句が遺産登録されれば俳句を「代表するもの」が現れる。代表される人々は俳人や修練者だけではない、国民全体だ。学校の教師が「定義」を鵜呑みにして、あるいはそれをアレンジして子供たちに教える。その子供たちが親になると、こんどは自分の子供に教える。だれもが「彎曲し」の句を応用として覚える。「応用」なのだから、そんな句を作ったりすれば学校では減点される。晴れて俳句は世界遺産となる。
(もっと子供じみたことをいえば、オーストラリアじゃ俳句はつくれませんね)
ではなぜこれほど定義づけに拘らなければならない人々がいるのか。私は#002において、俳句を定義づけることは「存在原理の欠如を埋めようとしている」のと同じだと述べた。もっと具体的に、何の欠如か。
民主主義は代表制である。人々が「王」を殺したのでその欠如を埋めようとしているのが代表制だと『ルイ・ボナパルトのブリュメールの18日』(平凡社、マルクス)の解説で柄谷行人は述べている。
俳句にとってその「王」とは誰か。他でもない、大衆俳句を先導した高浜虚子だ。虚子の欠如を埋めようとする、抑圧されたものの回帰が、俳句世界遺産問題である。
必要なのは、黙って従えばよろしい俳句界のリーダーなのか。自ら考えることを促してくれる師なのか。飯田龍太も加藤楸邨も、俳句界を牽引するようなリーダーにはならなかった。それゆえに近代主義を乗り越えることができたのではないか。
私の考えは俳句から民主主義へと飛躍したが、これは大風呂敷をひろげたことになるのだろうか。私は、俳句世界遺産問題をもっと大げさに考えてもいいと思う。大げさすぎることはないというのが私の考えである。
#022 金子兜太は俳句の「例外」か?(長谷川櫂)
2018年3月13日
金子兜太さんが2月20日、亡くなった。九十八歳。追悼文はけさ(2月22日)の朝日新聞に載っているので、お読みください。そこに引用した金子さんの句、
青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
どちらも五七五の定型ではない。「青年鹿を」の句には「鹿」という秋の季語が入って入るが、季語としては使われていない。しいていえば、夏の青嵐の句である。「彎曲し」の句には季語もない。「爆心地」を原爆忌の小季語とするのは、こじつけである。
ということは金子さんのこれらの句は有季定型を俳句とするという協議会(俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会)の「定義」からはずれ、俳句の「応用」になってしまう。もう一度、朝日新聞(2018年1月15日)を引用すると、
有馬さんは「申請の際には、日本語で書かれた伝統的な有
季定型で定義することになるだろう」と話す。そのうえで
「無季や自由律を排除せず、応用として広い意味での俳句
と捉える」との考えだ。
有馬さんは毎日新聞のインタビュー(2017年4月24日)では「例外」という言葉を使っている。
調整の結果、基本は「五・七・五の有季定型」。しかし、
多少の例外として非定型、季語なしや、すでに海外で人気
がある種田山頭火や尾崎放哉のような自由律も認めようと。
俳句世界遺産問題については、これまでさまざまな意見を寄せてもらった。「詠む人はそんなことには縛られない」、「仮にどんな定義がなされたとしても、俳句はそこを越えていくでしょう」という意見もあった。
しかし俳句の「定義」は「創作の指針」となるだけでなく「評価の基準」にもなる。評価の基準がおかしければ評価を誤り、誤った評価は俳句の道をゆがめる。
「彎曲し」の句は戦後俳句の世界を切り開いた句であり、「広い意味での俳句」どころか俳句の真ん中にある句である。それを「応用」「例外」と片づけてしまのは、この定義はいうまでもなく、やはり定義しようとすること自体がおかしいんじゃないか?(#016を「古志」4月号「俳句自在」用に加筆)
#021 問い続けるしかない(関根千方)
2018年3月7日
私は、今回「俳句の世界遺産登録」のための定義を軽率と言わざるを得ない(#018)と書きました。それはつまり「俳句の世界遺産登録」を目的に俳句を定義すること自体が軽率なことだという意味です。なので、この文脈で「軽率でない定義とは」と問われれば、それはないと思います。
ただ、そこを離れて、そもそも「軽率でない定義」があるかを考えなければならないのだとしたら、私は少なくとも、俳句の多様性や自由さ、歴史、生成変化を前提とする必要があるだろうと思います。
#001に俳句を定義することは「俳句の生命線を断ち切るも同然の愚行である」とあります。しかし、書籍や雑誌、いたるところで「俳句とは季語を入れた575の定型詩である」という定義が流通しています。それについて、いちいち、軽率だ!間違いだ!という人もいません。なぜなら、一般にそう定義されているだけにすぎないからです。もしくは、それぞれ個別に定義しているだけにすぎないからです。つまり、それらは普遍的な定義ではないということです。
普遍的な定義とは「俳句とは何か」を問い続けることでしかありえません。この問いを抑圧するような定義は、どんな定義であれ、普遍的であるはずはありません。
#020 軽率でない定義って?(長谷川櫂)
2018年3月5日
関根千方さんの意見(#018)に「今回の定義は軽率なものといわざるを得ないと思います」とありますが、では、どう定義すれば軽率でないのですか。
♯019 俳句の権威化は俳句の対極(藤英樹)
2018年2月24日
一連の議論を聞いていて思ったことを一つ。俳句を権威化しようとする動きが起きるのは、俳句の力が落ちているときです。それは歴史が証明しています。
江戸時代後半、蕪村亡き後、子規が現れるまでの100年、芭蕉が「桃青霊神」「花下大明神」などと神格化されていきました。それを推し進めた俳人たちにも「花の本宗匠」「花下翁」などの尊称が二条家から下されました。何をか言わんやです。
そもそも芭蕉はなんと言ったでしょうか。「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」(『柴門ノ辞』)。芭蕉の風雅は権威化とは対極にあるものだと思います。権威化することは芭蕉の教えを踏みにじることではないでしょうか。
第二次大戦後、桑原武夫の「俳句第二芸術論」に対して、おたおた慌てる俳人もいましたが、そのとき虚子は何と言ったでしょうか。
東日本大震災後を生きるわれわれ俳人がなすべきは、権威などに頼ることではありません。戦争が起きようが、大天災に遭おうが、びくともしない俳句を詠むことでしょう。
#018 今回の定義は軽卒(関根千方)
2018年2月22日
あらためて考えてみました。毎日新聞のインタビューで有馬さんは、非定型、無季、自由律は「例外」として認めると述べられています。
《俳句界の調整にも時間がかかりました。日本の俳句界には伝統的なものから現代的なもの、型にはまらないものまでありますからね。どこまでを対象とするのか。調整の結果、基本は「五・七・五の有季定型」。しかし、多少の例外として非定型、季語なしや、すでに海外で人気がある種田山頭火や尾崎放哉のような自由律も認めようと。》
これが本当に協議会の考えなのであれば、たしかに俳句の多様性をそこなうものであることは、明らかです。兜太さんの〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉が「例外」とは冗談も甚だしいと思います。
ただ、有馬さんや協議会の定義がどこまで影響力を持つか、それはまだわかりません。すでに俳句を詠んでいる人たちにとっては、過去の名句や、なにより師匠が最大の指針になっていると思うので、それほど大きな権威とはならないのではないか、という気もしています。
しかし、この定義が海外に向けて発信されることを考えると、やはり問題を感じないわけにはいきません。国内であれば、多様な考えを持つ人たちがいるので、内部で対処できるように思うのですが、外に向けて一つの定義が流通してしまうのは、大きな問題がありそうです。
それから有馬さんの主張を読むと、俳句を定義したくてしているわけではなく、単に「人間と自然との共生」を基本とした俳句に一途なだけのように思えます(だから厄介なのかもしれませんが)。もしかすると、無形文化遺産として登録すべきなのは「俳句」ではなく「季語」なのかもしれません。
余談ですが、俳句は季語を利用することもできますが、季語を利用しない俳句もあります。そう思うと、むしろ、季語が俳句を利用していると考えたほうが、自然です。季語は俳句という器に盛られることで季語となる、と考えるわけです。
いずれにしても、季語ではなく俳句を登録しようとする理由には、経済的な動機があることの証なのかもしれません(もちろん、経済効果を期待してもいいとは思いますが、目的と手段が逆立ちしてしまうのは、やはりおかしいと思います)。
有馬さんが「人間と自然との共生」を基本とした俳句というとき、おそらく気候変動の問題が最大のものではないかと思います。たしかに、多様な季節感を生み出してきた自然を維持したいという気持ちも、私は理解できます。
ただ、自然というとき、人間の外部にある自然だけではなく、人間の内部にある自然にも目を向けなければなりません。戦争や地域紛争の問題も、経済格差や貧困の問題も、そこに目を向けなければならない問題です。
そう考えていくと、今回の定義は軽率なものといわざるを得ないと思います。
以下、参考まで。
↓そこが聞きたい「世界のHAIKU」(有馬朗人氏)
https://mainichi.jp/articles/20170424/ddm/004/070/186000c
↓趣意
国際俳句交流協会
http://www.haiku-hia.com/special/unesco/kinenkouen201704.html
↓一般的な解説
NHK解説委員室
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/271409.html
↓世界遺産の理念
日本ユネスコ協会連盟
http://unesco.or.jp/isan/about/
#017登録は百年後まで保留 (本川直子)
2018年2月22日
「ふたたび俳句の定義の問題」を拝読。どう評価されてもかまわない、の私であっても一個人の問題ではないのだということにまで思い至らなかった。
「日本語で書かれた伝統的な有季定型で定義することに。」これが問題なので応用などという捉えかたをすることに・・・兜太さんの句、応用なんかじゃないよ!
俳句は自由。基本に季語と575。そして世界平和の一助たること。
嵐の斜面にて朝刊を読む 直子
#016 ふたたび俳句の定義の問題(長谷川櫂)
2018年2月22日
金子兜太さんが2月20日、亡くなった。98歳。追悼文はけさ(2月22日)の朝日新聞に載っているので、お読みください。そこに引用した金子さんの句、
青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
どちらも575の定型ではない。「青年鹿を」の句には「鹿」という秋の季語が入って入るが、季語としては使われていない。しいていえば、夏の青嵐の句である。「彎曲し」の句には季語もない。「爆心地」を原爆忌の小季語とするのは、こじつけである。
ということは金子さんのこれらの句は有季定型を俳句とするという協議会(俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会)の「定義」からはずれ、「俳句の応用」になってしまう。もう一度、朝日新聞(2018年1月15日)を引用すると、
有馬さんは「申請の際には、日本語で書かれた伝統的な有
季定型で定義することになるだろう」と話す。そのうえで
「無季や自由律を排除せず、応用として広い意味での俳句
と捉える」との考えだ。
俳句世界遺産問題については、これまでさまざまな意見を寄せてもらった。「詠む人はそんなことには縛られない」(#003)、「仮にどんな定義がなされたとしても、俳句はそこを越えていくでしょう」(#014)という意見もあった。
しかし俳句の「定義」は「創作の指針」となるだけでなく「評価の基準」にもなる。評価の基準がおかしければ評価を誤り、誤った評価は俳句の道をゆがめる。
「彎曲し」の句は戦後俳句の世界を切り開いた句であり、「広い意味での俳句」どころか俳句の真ん中にある句である。それを「応用」と片づけてしまのは、やはり定義がおかしいんじゃないか?
#015 なぜ荒川区が参加してるのか(長谷川櫂)
2018年2月20日
俳句世界遺産問題について、さまざまな意見ありがとうございます。関根千方さんの意見(#014)の中に経済効果の問題が書かれているので、それについて。
今年1月15日の朝日新聞によると、協議会のメンバーに東京都荒川区が入っています。なぜ荒川区が参加しているのか。荒川区は俳句、あるいは俳句世界遺産問題とどう関係しているのか。背景に隅田川対岸の足立区との『おくのほそ道』の既述をめぐる利害対立があるのではないか。
『おくのほそ道』にはみちのくへ旅立つ芭蕉と曾良は「千じゆと云(いふ)所にて船をあがれば」と書いてあります。この「千じゆ」が千住大橋の北詰めのいわゆる千住(足立区)であることは誰でもわかります。ところが荒川区は南詰めの南千住(荒川区)であると主張しています。これが横車のごり押しであることは明らかです。
なぜ荒川区がそんなことをするかといえば、『おくのほそ道』のルートに加わることによって、町おこしを狙っているからです。まさに『おくのほそ道』の経済利用です。その荒川区がメンバーになっているということは、協議会は荒川区のごり押しを認めていることになります。これでいいのかどうか。
#014俳句世界遺産の問題について(関根千方)
2018年2月19日
俳句の世界文化遺産登録については、急がずに良く考えたほうがいい、というのが私の考えです。
否定的な反応もわかるのですが、ユネスコの理念だけを読めば一定の理解はできます。ユネスコ世界遺産の登録基準を見ると、かならずしも現存する/しないに関係がなく、むしろ、生きた文化(伝統、思想、信仰、芸術)の保護を対象にしていることがわかります。なので、決して「遺産」しようというものではありません。
そもそもユネスコ世界遺産はアスワンハイダムの建設によって水没の危機にあったヌビア遺跡を救うことから始まったそうですが、その理念を確認すると、世界には自然災害や紛争、あるいは近代化による環境破壊などによって、失われていく文化や自然があり、それらを将来にわたって守っていこうということです。
俳句という文化は滅びないかもしれないですが、その文化が持続できる自然がなくなってしまえば、ただの空虚な形式になってしまいます。たしかに今世紀、自然環境の保護や生態系の保全は、ますます重要になってくるでしょう。俳句の存亡以前に、そうした危機感を共有することは大切だと思います。
しかし「富士山」のように現実が理念と逆に進んでいるケースがあります。富士山は20年もかけて念願の世界文化遺産登録を果たしたあと、観光客が激増しました。経済効果は年間数十億とも数百億と言われています。ところが、登山者の増加が斜面の崩落の問題を起こし、またゴミの不法投棄が増加して、景観や自然環境を保持がますます叫ばれるという、皮肉な事態に至っています。世界文化遺産の理念どころか、逆に経済的な動機だけが露呈したような状況です。もちろん、こうした状況を放置しているわけではなく、おそらく関係者はさまざまな対策を打ちつつあるのが、実情だと思います。
だから重要なのは、思っていることとやっていることが、ズレないようにすることではないでしょうか。
それから、もう一つ、俳句の世界文化遺産登録の問題とは別に、俳句を定義することの問題があります。
俳句は誰が定義しようと、実際に俳句を詠む人々に受け入られなければ、何の意味もありません。たとえ、「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会」が俳句を定義したところで、それは絶対ではないし、また変更可能性を含むものと思います。仮に一つの権威になるとしても、当然、反動も起こるはずです。それが新しい運動を起こすかもしれません。
また俳句が先か、定義が先か、といえば、もちろん俳句が先にあります。仮にどんな定義がなされたとしても、俳句はそこを越えていくでしょうし、それを塗り替えていくだけの力があると思います。
坂口安吾が「日本文化私観」で美や文学について言ったように、人が生き続けるために詠まざるをえない必要があるのであれば、俳句はなくならないし、俳句は生きつづけると私は思っています。
#013俳句と短歌と川柳と(佐々木健一)
2018年2月18日
俳句の文化遺産登録で三行形式の英語の詩と俳句の言葉の感覚のずれや逆に感覚の輸入が行われるやすくなる可能性がある。作品を紹介する書籍や雑誌の特集などがブームとして一時的にふれる機会が増えれば新俳句といった名前をつけられて作られるかもしれません。また新しい季語も生まれるかもしれません。
翻訳されることを意識した作句。
ルールとして規定されることで俳句の鑑賞と批評は技術点で競われることで、アウラ(ベンヤミン)の喪失および類想類句が今より増えると思われます。
一番わかりやすい批評とは実際に作句することだと思うからです。
文語から口語、自由律俳句から英語の三行詩、有季無季問わず、俳句として使ってはいけない言語表現はないということを芸術性とするなら、現在の芸術性は短歌や川柳に、また歌詞などに求められていくのかもしれません。
正岡子規や夏目漱石が俳句を見直しまた文学として確立しようとしたのとは真逆の、誰にでも作れる俳句の形骸化と判断して、別の表現を選択するか、その状況でも詩と詩ならざる作品のぎりぎりの境界を作りつつ広げていくことを試みるのかは、文化遺産登録されていない現在でも変わらないのではないでしょうか。
詩の芸術としての俳句。
文化遺産登録によって俳句の作り手が減少するか、広告のコピーライターのように依頼を受けて広告主の希望に合わせた作品を提供する職人になるか、まっとうに芸術家を目指すか、それを決めるのは制度ではなく、作り手だと思います。精進あるのみではないでしょうか。
#012俳句のユネスコの無形文化遺産登録に反対(松本邦吉)
2018年2月18日
遺産への登録は、ごく一部の俳人の「ため」になるかもしれないが、俳句のためにはならない。俳句の滅びの道しか約束しない。
俳句のためにならないのは、俳句が文学であるからである。文学は想像力によりつねに創造されつづける生成可能体(現在進行形)である。原理的に伝統的遺産(過去形)にはなりえないからである。
もう少し言うならば、俳句は〈漂泊〉と〈乞食〉という人間としての根源的自覚をもって作られてきた。そんな生の自覚をもって俳句の歴史は成り立っている。そんな歴史をたどりなおしてみたとき、どうして俳句を「遺産」とみなしうるだろう。
今さらという気もするが、桑原武夫の「第二芸術論」を思い出す。桑原は俳句の実例を挙げて、「これって文学?」と問いかけたわけだが、今回の遺産登録推進問題は、「あれから俳句もずいぶん進歩(近代化)し、立派になったのだから、遺産登録するのはどうか?」いう時代錯誤的な権威的な発想が大本に見え隠れしないか。この問題の本質は、じつは「今の俳句が文学ってほんと?」と俳人一人ひとりに問い掛けている点にある。それに気づかないとしたら、俳人一人ひとりの怠慢ではないか。
#011どっちでも構いません(伊藤寛)
2018年2月18日
権威付けは嫌いですが、あまり深く考えません。どっちでも構いません。後略
#010 俳句の力を信じる(三玉一郎)
2018年2月17日
俳句の世界文化遺産登録に反対です。
私たちが俳句に取り組むのは、まだ何なのかも分からない俳句を探求する気持ちがあるからです。その気持ちが生まれたのはそれぞれの人がそれぞれの経験によって俳句の力を信じるに足るものだと確信できたからにほかなりません。つまり俳句はそれぞれの人の経験、すなわちこころが土台になっています。
「前代の人が遺した業績」が遺産の、「物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること」が定義の意味です。ですから、俳句が遺産になった、あるいは定義された時点で私たちの探求の対象たり得る、こころを土台にした俳句ではなくなります。
俳句の存在への危機感が、世界文化遺産登録運動のきっかけかもしれません。しかし、その危機を打破できるのは遺産登録や定義ではなく、よい俳句そのものです。よい俳句はみずから俳句の可能性を大きくします。可能性の大きくなった俳句はある意味でより捉えどころのないものになるかもしれません。これは遺産登録や定義の対極にあります。しかし、その捉えどころのなさこそ俳句の存在する意味であり、その捉えどころのなさに耐えることこそ俳句に取り組む意味ではないでしょうか。私たちは俳句の力を信じるべきです。
捉えどころがないということはある意味で俳句は自由です。しかし自由の使い方はとても難しく、型枠を決められた方が人間は安心できます。これも遺産登録運動のきっかけの一つかもしれません。しかし、その先には俳句の終焉が待っています。ただ一方この自由の使い方を間違えると、取り返しのつかないことになります。それは遺産登録した場合よりもむしろ早く迎える俳句の終焉です。つまり、登録に反対し俳句の自由を守ろうとする私たちには、俳句という自由に責任と節度を持って取り組んでいく覚悟が求められます。
#009 俳句世界遺産は無意味(村松二本)
2018年2月16日
「俳句」を世界遺産に登録したとしても意味はない。
「俳句」をいかように定義したとしても俳句は俳句だ。もしも定義に縛られて行き詰まるような状況が生まれたとしたら、「俳句」ではない何かが新たに生まれるだろう。
そもそも「俳句」という呼称そのものが仮初めなのだ。それを誰かが強引につなぎ止めたとしても、「俳句」と呼ばれるものは、それ自身のエネルギーで生きながらえるに違いない。
仮に「俳句」が世界遺産となれば、これを錦の御旗とばかり周囲がにぎやかになるだろう。しかしそれも遊行柳に観光バスが止まるようなものだ。俳句会館でも建てて俳句まんじゅうを売るぐらいが関の山。後略
#008 俳句は「遺産」にはなりません(青沼尾燈子)
2018年2月16日
俳句は現在進行形の文化であり、前代の人が遺した業績として確定しているものではありません。したがって「遺産」にはなりません。
俳句は「自由」な思いや発想と表現です。有季定型や日本語は重視されるべきカテゴリーですが、これに縛られたり、これ以外の発想や表現(例えば無季や英語、フランス語など)が下位に置かれたのでは、「自由」が死にます。つまり、俳句が生きた俳句ではなくなります。無形文化遺産に、という運動は、俳句を死なせた上で「遺産」にしようというのでしょうか。
現代の日本では、「○○栄誉賞」や「○○ガイド・○ッ星」など、レッテル貼りが横行しています。俳句という文化に「世界遺産」というレッテルを貼ろうとする動きにしか見えません。
小説に、絵画に、音楽を無形文化遺産に、という運動が成立するとはとうてい考えられません。
#007 文化遺産に大反対 (趙 栄順)
2018年2月15日
俳句を文化遺産にすることに反対します。
文学、ひいては言葉を窮屈な鋳型に嵌め、何が得られるでしょうか?
誰が得をするのでしょうか?
短歌を文化遺産にしないのは何故でしょうか?
皇室との関わりが出来ることに差し障りがあるのでしょう。
結局「世界文化遺産」という仰々しいタグを付けられ商品化され、いずれ政治家や御用学者が巧く利用するのが見えてくるではありませんか。
「大俳人」が提唱し運動することで、単純に迎合する人たちに罪はありません。
本気で俳句を考える人は、声をあげるべきでしょう。
#006 俳句は「消滅」するのか? 何を守るのか?(長谷川冬虹)
2018年2月12日
世界遺産登録に反対です。何を何から守ろうとしているのか、が曖昧だからです。結局は国際的な権威づけがほしいようですが、それは俳句的な精神の対局にあるものでしょう。
1月15日の朝日の記事で、文化庁の担当者の「このままでは消滅するかもしれないものに光を当て、守るのが本来の趣旨」という言葉が紹介されています。世界遺産登録は、このままでは俳句は「消滅する」と宣言しているようなものです。
第2に、有馬さんの規定では、日本語だけではない英語のHaikuが排除されてしまいます。「和食」の場合には、和食ならざるものから、和食を守るという狙いがあったと思いますが、俳句の世界遺産登録は、一体、何を何から守ろうとしているのかがきわめて曖昧です。
#005 俳句世界遺産登録に反対です(浅生田圭史)
2018年2月11日
俳句の世界遺産登録! イタズラが校長先生から表彰されちゃう、みたいな話ですね。もうイタズラは出来なくなっちゃうかな。
俳句に限らず、文学でも美術でも音楽でも、社会から少なくとも半歩くらいは離れておかなければいけないと思います。
今回の話は、私にも、まずい流れだと解ります。微力ですが、周りにも訴えて行きたいと思います。また、お手伝い出来ることがあれば、加えていただけると幸いです。
#004 俳句世界遺産に反対です(喜田りえこ)
2018年2月10日
ちょっと想像して下さい。句会で、「この句は世界遺産として相応しい句です」と言う批評がでる場を。
今ならブラックジョークと一笑できますが、俳句を世界遺産にすると言うのは、そういう句会をごまんと作るとことです。どこが相応しいのか、そもそも世界遺産とは何か。深く掘り下げて鑑賞することなく、無自覚、無批判なレッテル貼りに終始する。それこそ俳句いえ文学の堕落です。
第二次世界大戦の前後を思い出して下さい。戦前は、厭戦的といふレッテルで、俳句を弾圧し、戦後は戦争に協力したと非難する。表現の良し悪しとは関係のないレッテル貼りが横行しました。それの延長線上に今回の能天気な「世界遺産」があると思います。
レッテル貼りでは、豊かな批評は生まれません。豊かな批評があってこそ豊かな文学があると思います。そのためにも、「世界遺産」というレッテル貼りに反対の声をあげるべきです。
#003 俳句世界遺産、全く問題なし(本川直子)
2018年2月9日
詠む人はそんなことには縛られない。俳句の核、季語とのかかわりを第一としてます。
俳句なるものを世界に知らしめる一助に、詠む気になってくれれば万々歳!そこから各々が学び楽しめばいいのです。
季語という核を持つ俳句は他の文学、美術とはことなります。
そしてなにより俳人は自由、俳句世界遺産になったらなったでそれを肴に一杯、一句と洒落こみますよ。
#002 俳句世界遺産、登録させない運動を(大山アラン)
2018年2月6日
ユネスコにそもそも疑問がある。ユネスコは「法の支配」に対して「基本的自由」を尊重するのが目的である。しかし文化を登録をするということは、あることを定義づけ支配におくことだ。人間の基本原理を創設することである。これは法の原理そのものではないか? 「言葉」を限られた人間に掌握させることで、われわれは自由を失うだろう。
ユネスコ憲章第1条に、次のようにある。「いずれの国で作成された印刷物及び刊行物でもすべての国の人民が利用できるようにする国際協力の方法を発案すること。」
このような考えは、言葉に絶対的な信頼を寄せているものだ。しかし言葉に信頼をよせるほど、言葉はより支配的になり、そのような言葉に応答する責任を減ずることになる。このような言葉はもはや機能であり、考える必要もないのだ。しかし考える必要のない言葉などもはや言葉でもない。それは純然たる受容を要求する記号でしかない。
どの国が印刷物をつくっても、どの国でも通用するということは、言葉を形骸化させることに他ならない。いや、そればかりか思想を缶詰にすることだ。思想の缶詰を仕入れるだけ仕入れて、存在原理の欠如を埋めようとしている。
上に引用したような「方法」はそもそも「発案」できるものではない。実際「国際協力の方法を発案」なんていう曖昧な言葉は実に無神経で具体性がない。蛾が光に吸い寄せられるように、なにか「発案」という言葉にメシア的なものの救済を求めているポーズに過ぎない。人間の存在は、このようなポーズとは相いれないはずだ。
なぜここでいう「方法」に具体性がないのか。それは、言葉にたいする「発案」がなく、したがって言葉が交通をひらいた社会に対する「発案」がないからだ。「発案」がないから、俳句を無形文化財に登録する運動を「廃案」にするという言葉さえ、しっくりこないほどである。
けれども登録されることへの渇望とでもいうべき病、人間の存在原理を人間が創りあげていくという一種の病は例外なく誰にでもあるはずだ。俳句世界遺産の運動を他人事とおもっていると、自分の句作までこの病に蝕まれる。
必要なのは俳句を文化遺産に登録することではない。「俳句」を発見していくことである。具体的に言えば俳句を文化遺産に登録させないという運動において「俳句」の発見は各々のうちで達成されるであろう。
#001 俳句世界遺産という愚行(長谷川櫂)
2018年2月5日
元文部大臣の有馬朗人さんが中心になって、俳句をユネスコの無形文化遺産にしようという運動がはじまっている。今年一月十五日の朝日新聞に経緯と現状がまとめてある。
大きな問題がある。それは無形文化遺産に登録するために俳句を「定義」しようとしていること。朝日の記事からその部分を引用すると、
有馬さんは「申請の際には、日本語で書かれた伝統的な有
季定型で定義することになるだろう」と話す。そのうえで
「無季や自由律を排除せず、応用として広い意味での俳句
と捉える」との考えだ。
何の問題もなさそうだが、有季定型であれ何であれ、俳句を定義すること自体が俳句の生命にかかわる問題なのである。俳句という文学は誕生以来、自分は何者か、俳句とは何かを問いつづけることによって発展し存続してきた。
それを俳句とはこんなものであると定義するのは俳句の生命線を断ち切るも同然の愚行である。それはやがて俳句の障壁として立ちはだかり、ついには俳句の滅亡を招く「トロイの木馬」になるだろう。もし俳句の定義が世界遺産化の必須の条件なら、俳句の世界遺産化とは俳句を文字どおり「遺産」にすることにほかならない。
同じことは俳句だけではなく、芸術すべてに当てはまる。美術も文学も美術とは何か、文学とは何かと問うことを発展のエネルギーにしてきた。それをたとえば十九世紀に定義していたら、二十世紀の美術や文学は存在しなかっただろう。だからこそ生きた美術、生きた文学を世界遺産にしようなどという愚かなことは誰もしてこなかったのだ。
ところが俳句ではこの自殺行為にも等しい「遺産」化が愚かにも進められている。(「古志」2018年3月号、「俳句自在」から)