花も紅葉もなかりけり 「古志」2019年11月号から
言葉とは不思議なものである。何もないところに幻を出現させる。『新古今和歌集』に並ぶ、いわゆる三夕の歌、
寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮
寂蓮法師
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮
西行法師
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮
藤原定家
それぞれに山、川、浜の秋の夕暮れを詠んでいる。いま定家の歌を見てもらうと、「花も紅葉もなかりけり」いいながら、花や紅葉の幻が秋の夕暮れの海辺の景色に出現するのに気がつくだろう。
虚空に幻を出現させる、これが言葉の力である。言葉の力はつねに人間の想像力に働く。言葉を手段とするあらゆる文学は言葉のこの力の所産にほかならない。
寂蓮と西行の歌は「槇立つ山」「鴫立つ沢」という実景のようにみえるが、定家の歌を読んだあと、この二首に戻れば、これもまた幻であることがわかるだろう。
明治以降の文学研究がずっとおろそかにしてきたことではないか。
ひと逝きし淋しさ言はず暑に耐ふる ざいつかほる
「一句欄」に寄せられた句だが、第一の問題はそこのところにある。「淋しさ言はず」といいながら言ってしまっているのだ。言わないのであれば言ってはいけない。
第二の問題は「暑に耐ふる」。「言はず…耐ふる」では救いようのない理屈。
では十月の鎌倉句会から。
鮭打てば遠嶺の雪の香りけり 宣行
恋の句を詠みし硯のしぐれけり 宣行
天空の花野に遊ぶ雲ひとつ 一郎
まぼろしの九十九句玩亭忌 一郎
台風一過はだかの富士の現はるる 光枝
激情の棒もて鮭を打ちにけり 光枝
雨風に耐へて見事な花野かな 益美
台風も道草するや玩亭忌 尚子
玩亭忌知れば知るほど面白く 侑子
今生の鮭打たれても打たれても 久美
月山のもみづるころや玩亭忌 ひろし
(「古志」11月号の「俳句自在」を転載)