句集『九月』を読んで 村松二本
『九月』はⅠ~Ⅶの七章から成る。『沖縄』(2015年 青磁社)と同じように文庫本サイズの句集である。まず印象に残った句を挙げてみよう。
白山という一塊の春の雪
鈴木大拙記念館
いつかまた昼寝をしたき柳かな
石は立ち水は寝そべる柳かな
涼しさの流れつぐなり大井川
八代亜紀、東京ブルーノート
魂を燻らせ歌ふ霜夜かな
永き日や花びらの上に結跏趺坐
春愁は鯨の立てし波ならん
真白な羽をたたみて薔薇眠る
涼しさや水でもてなす山のそば
鳥海山うしろは月の奈落かな
けだものの貌の鰯を挿しにけり
大岡信、二〇一七年四月五日永眠。九日、吉野にありて
花見舟空に浮かべん吉野かな
へうたんの中へ帰らん春の暮
愚かなる一人のための除夜の鐘
貝殻の一個の夏の美しく
須佐之男の乗つて軋ます長刀鉾
わが旅のこれより先は大夕焼
君たちとこれより満ちてゆく月を
次の世は二人でやらん鯛焼屋
座布団を立つてみにゆく桜かな
吉野建船のごとしや花吹雪
花に酌む鬼一匹やむかう向き
忘却の花に埋もれて花の庵
一晩の山の奢りか花の塵
湖を行く月の光の仏たち
月孤独地球孤独や相照らす
空暮れよ湖暮れよ鳰
ぎしぎしと舟漕ぎまはる桜かな
玄海や波が波打つ秋の風
凩となりてさすらふ渚かな
夢の世に一筋氷る茶杓かな
今さら言うまでもないことかも知れないが、長谷川櫂の俳句の基盤となっているのは、言葉の確かさである。櫂は句の中の言葉に対して実に厳格だ。情や気分に流されるということがない。側の者にそれが分かるのは句会の選である。選句において手加減は一切ない。まさに非情。仮に手心を加えていたとしたら、現在の「古志」誌上は寥々たるものになっていただろう。『九月』を通して読めば、その厳しさが櫂自身の句にも向けられていることが分かる。
次に、物事を単純にかつ大きく叙する。これは『俳句の誕生』(筑摩書房)に説かれる「主体の転換」と密接に関わっている。それは、一句の主体が生身の作者とは限らないということだ。ときには現実を離れたところに立って詠んでいる。あるいは人智を超えた存在と化しているのである。このことが櫂の俳句をスケールの大きなものにしている。
第三に瞬発力。句座を共にしたことのある方は御存知だろうが、席に座ってから詠んだ句を出すことがしばしばある。目の前の景や趣を即座に詠み上げるのだ。明らかに即吟を心掛けている。これは、遡れば発句は挨拶だというところにたどり着く。原点を見失ってはならないという教えである。鬼貫の「誠の他に俳諧なし」という言葉通りである。例えば、句座にある者への呼び掛けであり、あるいは机上に菓子を置いてくれた方への感謝の心だ。それが瞬時に俳句となる。
念のために申し添えると、こういった姿勢は「主体の転換」と矛盾すると思われる向きもあるかも知れないが、決してそんなことはない。いずれも「虚に居て実を行ふべし」(支考「陳情の表」)という基本方針の範疇でのことである。
日常のあらゆる機会を捉え、17音に掬いとる。そういう生き方を求めている。
長谷川櫂の俳句の宇宙は今も膨張を続けているのである。