吉野山花の句会から
二月が寒かったので今年の桜は遅いかと油断していたら、三月になって急に暖かくなり、桜は早々と咲き、早々と散り果ててしまった。
今年の吉野山の花の句会は四月七、八日だったが、今まではまだ花の咲いていない年もあったのに、今年ばかりは下千本はいうもおろか、中千本、上千本も葉桜。岡野弘彦先生と私と家内、吉野神宮前駅で近鉄電車を降りて金峯山寺まで車で登り、わずかに咲き残る奥千本の花を惜しんだ。
句会はその夜と翌朝の二回。数年前に閉じた櫻花壇の百畳の、といっても数えたことはないのだが大広間を借りて開いた。この大広間、吉野谷に向かう全面がガラス戸になっていて、花ざかりに巡り合えば、花の絵巻を目の当たりにすることになるのだが、今年は葉桜絵巻になってしまった。しかしながら、俳句にとっては散り果てた花を忍ぶのも格好の題材ではある。
句会で感銘を受けた句をいくつか。
その奥の花を見にゆくはなふぶき 三玉一郎
今宵どの桜吹雪に眠らうか
近年とみに頭角を現してきた人である。前句は散る花とその奥の桜を二重に重ねて詠んだところ。後句は旅寝を装いながら、どの桜の下に眠ろうかとはいわず、桜吹雪に眠るといったところが卓抜である。ますますの研鑽を期待したい。
桜湯をゆらせばほのと花ひらく 澤田美那子
茶碗の桜湯を揺らす。するとそれに応えるかのように一輪の桜の花びらがほぐれる。肩の力の抜き方というか忘れ方がすばらしい。先ごろ、『さくらんぼ』というそれは美しい句集を出されたばかりだが、句集を編むことの功徳がこんな形で出てくるのであれば、これほどうれしいことはない。
無意識も意識も花のわが身より 上田忠雄
朝湯して黒髪花のごとくあり 上田悦子
忠雄さんの句は「花のわが身かな」だったのをこう直したのだが、いずれにしても観念を恐れず一句にした。悦子さんの句は黒髪の存在感が尋常のものではない。互いにまったく異なりながら相通じるところもあって、夫婦で句を作る理想に近い形がここにあるだろう。(「古志」5月号、「俳句自在」を転載)