『俳句の誕生』の誕生(村松二本)
これほどわくわくしながら一冊の本を手にとるのは、そうそうあることではない。
なにしろ『俳句の誕生』を解き明かしてくれるというのだ。
つんのめりながら扉を開いた。
第一章「転換する主体」では自ら巻いた歌仙を例に、一句ごとに「主体の転換」が起こっている。歌仙の連衆は場面を転換するために「自分自身でもない別の誰か、新たな主体に成り代わる」と述べる。
第二章は「切れの深層」。「発句とは歌仙の句と句の「間」、そこで起こる主体の転換を一句の内部にとりこんだもの」。そして、それによって「言葉の無限の交響」を目指すものだと説く。
ということは、いわゆる「取り合わせ」は歌仙の付け合いから生まれた手法ということになる。「発句は畢竟取合物とおもひ侍るべし」(『俳諧問答』)という芭蕉の言葉も、これですっきり合点がいく。
それにしても、この第一・二章だけでも句作りに精を出す者にとっては一冊の著書に相当するような内容の濃さである。
第三章「空白の時空」。主体が転換するときに、心は「空白の時空」に遊んでいる。そこで生まれるものが「詩歌」である。
第四章「無の記憶」では「詩歌を作ると言うことは、詩歌の作者が作者自身を離れて詩歌の主体になりきること」。そして、「言葉によって失われた永遠の静寂を、ふたたび言葉によって取り戻そうとするのが詩歌である」と言い切る。
やはり詩歌はちっぽけな自分を表現するものではない。もっと深いところから、もっと広いところから湧き出てくるものなのだ。
第五章「新古今的語法」では、「新古今的な言葉の切り結び」が禅の伝来に端を発していると言う。
第六章「禅の一撃」では、まず「禅問答とは言葉の限界を言葉によって知らせ、修行者を宇宙の真理に直面させるための言葉の仕掛け」と述べ、一方「シュルレアリスムの核心」は「言葉とその論理をいったん破壊して新たに組み上げる」ところにあるとする。その上で、「シュルレアリスムも禅もそれから生まれた新古今的語法も俳句も、はるか昔、人類が言葉を獲得したことによって失われた永遠の静寂を懐かしむ人類の郷愁が姿を現したもの」と喝破する。
これまでに、こんなに込み入った事柄について、糸をほぐすように分かりやすく書き留めた文言があっただろうか。
ここからは俳句のおかれた現状について考察する。
第七章は「近代俳人、一茶」。本来の「リアリズム」と子規の説いた「写生」の違いを明らかにし、近代俳句の発生は子規ではなく一茶に遡ることができると捉える。
第八章「古典主義俳句の光芒」では、蕪村の「春風馬堤曲」をつぶさに読んで、子規の取り上げた蕪村の「写生」がその一面でしかないと指摘する。
第九章の「近代大衆俳句を超えて」は、はじめに「大衆俳句指導者」としての虚子と、「俳人虚子」の本質的な違いをあぶり出す。さらに「虚子、蛇笏とつづく詩歌の本道が龍太にも楸邨にも受け継がれた」。それと同時に「衆愚政治(ポピュリズム)の時代が到来し」、俳句も「大衆化が極度に進んだ」と分析する。そして、この状況を直視し「巷にあふれる俳句の批評と選句を前にしたとき、それが単なる好みによるものか、それとも言葉と詩歌の歴史を踏まえた見識によるものか、いいかえれば誰の批評であり誰の選句であるかを見極めなければならない。」と結ぶ。
筆者は『俳句の誕生』を『俳句の宇宙』『古池に蛙は飛びこんだか』に続く三部作の最終巻と位置づけているが、もちろんそこには『子規の宇宙』や『芭蕉の風雅』『新しい一茶』等の著書も流れ込んでいる。その結果、ここに大きなダムができあがった。
『俳句の誕生』は「俳句とは何か」という問いに、長谷川櫂が全力を注いで導き出した答えである。しかし、それは最終的な解答ではない。あくまでも現時点での最高到達点である。
いずれこの答えは更新されるであろう。宇宙の謎が一つ一つ解き明かされていくように。それは櫂自身によるかも知れないし、後から来た誰かによってかも知れない。
肝心なのは『俳句の誕生』によって明らかにされた真相を、これからの俳句に生かしていけるかどうかである。これを読んで頭で理解して、それでこと足りたとしてしまったのでは何のためにもならない。
『俳句の誕生』は、新しい『俳句の誕生』を促す一冊である。長谷川櫂はそれを待ち望んでいるに違いない。(村松二本)