殻を破る挑戦を 「古志」2019年5月号から
「俳句には向かない題材」「俳句ではそれは詠めない」とはしばしば耳にする意見である。
俳句に限界があるか。この問題について、まず言えることは「俳句の限界」と考えられているものは、俳句の限界などではなく、その人の限界であるということである。
ではなぜ、自分個人の限界を俳句全体の限界と勘違いしてしまうのだろうか。それはその人で自分が作り上げた「俳句とはこういうもの」というイメージ、つまり殻の中に自分を閉じこめているからである。露骨にいえば「俳句とはこの程度のもの」と蔑んでいるからである。
そういう人は俳句の全体像を見ようとはしない。自分が知っている俳句より、広い俳句の世界があるとは思ってもみない。この殻を壊すのは容易なことではない。ただ壊せないこともないのであって、本人の内側からの意欲と外側からの刺激が協力的に働けば、殻は容易く壊れるだろう。
ここでまず大事なのは内側からの本人の意欲である。もしこれがなければ、外からいくら刺激しても余計なお世話ということになる。
本人の意欲とは、まず自分が殻の中にいることを知ること、次に殻の外には広い世界が広がっていることを知ること。そして、内側から殻を破る挑戦をつづけること。きわめて当たり前のことだが、これ以外にはない。
四月の鎌倉句会から。
海市よりいまも帰らぬ船一つ 道子
著莪が咲くや山の上まで墓となり 道子
名をつけてうちの子となる子猫かな 道子
力ある種となれよと浸しけり 靖彦
タンカーのなほ呑まれゆく海市かな 靖彦
長生きのその先知らず桃の花 菊子
老象の目小さき春愁ひ 菊子
使ひ込む茶筒百年樺桜 伊豆山
挿し木してまた千年を滝桜 伊豆山
遠き日のさざめきにとく粽かな 美津子
春愁の真上に白し昼の月 美津子
肩車して蜃気楼見せてやる 秀子
花冷や酒もてしめす死者の唇 秀子
花冷の日がな一日猫眠る 康子
かはほりも少し酔ったり花の闇 英樹
今年また四月五日の花の冷 光枝
富士にわく産湯死に水春の水 遊歩
生き死にの説法中や遠蛙 麒麟
(「古志」2019年5月号「俳句自在」を転載)